《いまを生きるみことば》「声」は聴かれたか

在日大韓基督教会牧師
社会福祉法人青丘社評議員 金迅野

私は牧師をしながら川崎市にある「子ども文化センター」の仕事を兼務しています。京浜工業地帯の働く人の町にあるセンターには、日々、多くの子どもたちが訪れてくれます。すでに働き始めて9年になろうとしていますが、たまにこんな声が耳元でつぶやかれることがあります。「母さんが生活保護のお金が380円しかないって言ってるから昨日から何も食べてない」(小5)、「さすがに2日間夕飯抜かれるとしんどい」(中2)……。紛れもなく21世紀の日本を生きる子どもたちのある現実がここに浮かび上がっているように思います。そのような「声」を受け取ることができたときには、急遽、何か即席に食べ物を作ったりしますが、それはもちろん何かの「解決」ではありません。「声」を聴くたびに、痛いほど切実に思うことは、「声」が「声」になるまで、「声」はついぞ聴かれることなく放っておかれたのだということです。今も聴かれることなく、聴かれることを待っている、私が聴き損なった「声」がある。そう、「声」は聴かれることを待っている。そんなふうに感じることがあります。

ところで、「声」をこの世でいちばんよく聴いた人は誰でしょうか。それはまぎれもなくイエスではなかったかと、私は思っています。聖書にはイエスが人々を「真ん中」にいざなう場面が幾つか出てきます。例えば手のなえた人を癒やす物語(マルコ3:3、ルカ6:8)、姦通を犯した女の人をめぐる物語(ヨハネ8:3、9)、子どもを招く物語(マルコ9:36、マタイ18:2)などです。どの人物も当時の社会の周縁に位置づけられ、その「声」が聴かれることのまれだった人々です。聖書は、これらの人々の「声」を記録していません。私は、イエスだけがその「声」を、いや、時には「声」ですらない「声」以前の何か、誰かが聴き損なった何かを聴かれたのではないか、そしてそのような「声」こそ社会の「真ん中」に位置づけられるべきだと教えられたのではないか、そんなふうに思います。数年前に他界したフランスのある社会学者が「世界には声にならない声が満ち満ちている」と語ったことがあります。他者の痛みへの無関心がどんどん強まるように感じる現代社会の中にあって、私は、イエスに倣って、「真ん中」に焦点を合わせつつ、そのような「声」、いや「声にならない声」、「声以前の何か」に耳を澄ませる者でありたいと思います。(月刊「いのちのことば」2016年4月号)

月刊「いのちのことば」

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