《ことばのちから》人格的な交流に不可欠なコミュニケーション

株式会社こぐま社相談役 佐藤英和

ある朝、我が家の食卓に金柑が並びました。妻が口に入れながらうれしそうに言いました。「きんかんもろたら実ぃやろか。みかんもろたら皮やろか」。関西で育った妻が子どもの頃に覚えたことば遊びだそうです。表現だけみるとちょっと意地悪に感じるのですが、そこにはユーモアと遊び心が感じられ、家族や友だちと過ごす楽しそうな日常が目に浮かぶようです。

子どもはことば遊びが大好きです。身近にある出来事をおもしろおかしく、リズミカルに表現し、場面が同じでも、同じことば遊びでも、何度も何度も笑い転げます。子どもが育っていく上でかけがえのない家族や仲間と過ごす時間の中で、大切な役割を果たしている瞬間です。

ことば遊びは、やがて数え歌やあそび歌になったり、物売り口上などになっていくこともあり、子どもだけでなく、庶民の生活や文化にも欠かせないものとも言えます。心地よいリズム、ユーモアに満ちた表現は、人格的な交流に不可欠なコミュニケーションの最も基本となるものです。

私は1966年に日本の子どものための絵本を作りたいと「こぐま社」を創業しました。当時、日本で出版されている絵本の多くは、すでにあった物語に絵を付けた「物語絵本」か、海外の絵本を訳した「翻訳絵本」でした。もちろんこれらにもすぐれた絵本がたくさんあり、否定するものではないのですが、私がめざした日本の子どもたちのための絵本は、絵そのものがストーリーを物語り、添えられることばが美しいもの、楽しいものである、そんな絵本でした。

「まっしろなきれ ふわふわって そらから おちてきた」「ミシンカタカタ わたしのワンピースを つくろうっと ミシンカタカタ ミシンカタカタ」「できたできた ラララン ロロロン わたしに にあうかしら」「おはなばたけを さんぽするの だあいすき」「あれっ ワンピースが はなもようになった」「ラララン ロロロン はなもようのワンピース わたしに にあうかしら」……。

これは、こぐま社の絵本の代表作のひとつと言えるにしまきかやこさんの『わたしのワンピース』の冒頭部分です。一度でもお読みになった方には、物語の展開も含めて場面ごとの絵が目に浮かぶことでしょう。でも、こんなに短い文だったことに驚きませんか。説明がなくても、私たちは絵を読みながら文の行間をしっかり読み取っているのです。逆に、この絵本を目にしたことにない方には、これだけの文を読んでもこの本の魅力は伝わらず、この本が約50年間重版を重ね、170万部が売れ、さらに日本だけではなく5か国でも翻訳出版されるロングセラーだ、と聞いてもピンとこないかもしれません。「ある日、主人公のうさぎのもとに空から真っ白なきれがふわふわと落ちてきます。うさぎはそれを持ち帰り、ミシンでワンピースを作ります。そしてできあがったワンピースを着て、散歩にでかけるのですが、お花畑を歩くと、真っ白だったワンピースがなんと花模様になります。そして雨が降れば水玉に、とワンピースの柄が変化していきます……」。こう書けば物語になります。でも、これでは逆に絵の魅力がなくなってしまいます。つまり、絵そのものがストーリーを語り、そこに説明的ではないリズミカルな美しい文が添えられ、ページをめくるたびにそのあざやかな物語の展開に、子どもたちは主人公になりながら入りこんでいく、そんな絵本なのです。先に触れた物語絵本とはまったく違った「絵本」そのものだと言えます。

絵本は、子どもが最初に出合う本ですが、最初から自分のちからで読めるわけではありません。そこには読んでくれる大人が存在し、その大人は、その子の存在そのものを抱きしめ、心からの愛情を注ぎ、肉声で語りかけます。2人を包み込む空気は幸福感に満ち溢れています。そのようなこころ安らぐ場で子どもたちは「絵本」の楽しみを知り、自由自在に物語の主人公になり、成長していきます。そしてさらに多くのことばを獲得し、人間関係や行動範囲も格段に拡がっていきます。その中では冒頭にあげたようなことば遊びに触れたり、自分自身が創りだすようなこともあるかもしれません。

本来、ことばは人と人の間にあるものです。「人と人のあひだを 美しくみよう」と詩人の八木重吉さんは言っていますが、まさしく人と人の間にあることばは、美しいもの、楽しく豊かなものでありたいと思います。絵本で語られることばが、そんな役割を担いながら、大人の口から発せられ、子どもたちに届けられたら、どんなにすてきなことだろう、と、この時代に思うこの頃です。(月刊「いのちのことば」2018年3月号掲載)

月刊「いのちのことば」

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