《この町この教会》松山教会を訪ねて

四国最大の都市松山。町の中心にはお椀を伏せたような標高百三十二メートルの城山の頂に松山城がそびえる。関ヶ原の戦いで武功のあった加藤嘉明によって築城され、その時から地名も「松山」と呼ばれるようになった。昔から道後温泉と『坊っちゃん』、俳人正岡子規で知られる町だが、近年は『坂の上の雲』の影響で秋山好古・真之兄弟など、近代日本の勃興期に活躍した郷土の人物がスポットを浴びている。

一人の長老の伝道に始まって

日本キリスト改革派 松山教会
〒790-0804 松山市中一万町6-4 TEL:089-943-1852

市の城北、閑静な町並みの中に、松山教会は立っていた 。二年半前に着任したという久保浩文牧師に話を伺う。「お話しできるような働きはまだ何もしてない者ですけど…」。実直で謙虚な人となりが感じられる。聞けば、久保牧師は根っからの四国人で、出身は高松、牧師となってから新居浜、高知の教会を合わせて二十年牧会してきた。松山に来て日は浅いが、神学生の時、忘れられない経験をした。
「夏期伝道で四国に遣わされることになりました。その少し前、私は自分の小さな虚偽の発言で周りに迷惑をかけ、罪の恐ろしさを体験していました。この奉仕を果たせば、罪が赦され、主は私を牧者として召してくださっていると確信できるのでは、との祈りをもって出かけました。松山教会を拠点に神学校のアピールをして回り、みことばの奉仕をしました。


上:久保牧師夫妻

突然の父の心臓の病

ところが二か月に及ぶ奉仕の折り返し点を過ぎた時、突然、高松の実家から、父が心臓の病で手術を受けなければならなくなったと知らせがきました。手術しなければ五年以内に死に至ること、大量の献血が必要なことを告げられました。その状況を松山教会の役員と北四国教師会に知らせると、何名かの教師、会員が献血に応じてくださったのです。八時間に及ぶ大手術を終え、眠っている父の顔を見ながら、主なる神こそ命の源であり、生きて働いておられることを知りました。
こうして、四国の教会の方々に感謝しながら、神学校での残された学びを全うすることができたのです。そして、自分が福音を伝えるように召されていることを確信したのです」
以来、久保牧師は毎朝、「主よ。今日もこの教会の牧者として、また、みことばの役者として召命感を支え、お守りください」と祈ってきた。

松山のシンボル、松山城

松山教会の歴史

松山教会の歴史は、故・平岡伝四郎長老の存在を抜きにしては語れない。敗戦の年の大空襲で市内全域が廃墟と化してまもない一九四七年、平岡さんは不屈の信仰をもって立ち上がり、家を開放して近所の高校生に伝道するところから群れが起こされていった。二年後、松山教会が設立される。さらに五一年、初代の専任牧師として宮道夫牧師を迎え、その後、五代の牧師に継がれて今日がある。九二年、百人礼拝のビジョンのもとに現在の美しい教会堂が完成した。
今、取り組むのは「契約の子」である会員子弟への信仰継承と信仰教育、そして牧師と長老、執事が、自力で礼拝に来られない病床の信徒、高齢者の家を訪ね、在宅聖餐式を行うことだ。教会の年間標語は「キリストのいのち輝く教会」。どこまでも実直に、主に忠実に歩もうとする教会の姿がそこにあった。
(鴻海 誠)【「百万人の福音」2017年5月号より】

 

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