《ふり返る祈り》見えないものに目を注ぐ ?!

斉藤 善樹(さいとう・よしき)

自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた3代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。


確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
コリント人への手紙5章7節


神様、私たちは目に見えるものに頼って普段は生活しています。けれども目に見えるものは時に私たちの心を惑わします。目に見えるものに、何の希望も夢も見えないとき、私たちは失望するのです。そしてすべてに気力を失ってしまいます。けれども信仰は目に見えないものに目を注ぐことです。あなたは私たちの見えないところで働き、見えないところから私たちに希望を与える方です。主よ、周りのものに希望的なものが見えないとき、自分自身の内に力の足りないことを感じるとき、見えない神の力に心を注がせてください。私たちの行いの真ん中に、見えないあなたへの信仰を置かせてください。

確かに私たちは、普段は見えるものに頼って生活しています。目が不自由でなければ、道路を渡るときも、電車に乗るときも、車を運転するときも見えるものに頼ります。目がご不自由な方も耳や触覚という自分の感覚に頼って生活しています。視覚に限らず、私たちは目に見えるような具体的なものに頼って行動します。建物を建てるときも具体的な計画、予算もきちんと目算を立てて、計画を実行に移すのです。

イエス様自身も言っています、敵と戦うときは相手と自分の力を比べて勝てそうであれば戦い、負けそうなら和睦すると。確かにそうなのです。見えるものは無視できません。けれども、見えるものが頼りにならないで、見えないものがしばしば私たちに大きな力を与え、影響を及ぼすことも事実です。いまだに大きな傷を背負っている東日本大震災の記憶は生々しいですが、私たちは津波によって丸裸にされた町や村、放射能の汚染によって人が住めなくなった地域を見ました。かけがえのない家族を失い、仕事を失った人々を見ました。見えるものには一切、希望が見えませんでした。楽観視できるものは何一つありませんでした。もしそこから立ち上がらせるものがあるとしたら、それは目に見えない何かでした。もちろん目に見える支援や物資は必要です。けれども回復への一歩を進ませるのは目に見えない何ものかでした。クリスチャンは見えないものに目を注ぎ、信仰によって歩くのです。

繰り返しますが、決して見えるものを無視することではありません。私たちの心の真ん中に信仰を置くことです。私たちの考えること、行うこと、人と関わることにおいて、その核となる部分に信仰を据えるのです。主がともにおられること、主がともに働いてくださっていることへの信頼を根底に置くのです。

見えるものは変わっていきます。いつか衰退します。弱くなります。もし私たちが見えるものだけに目を留めて、見えるものだけを中心に物事の計画を立てるならば、その計画は一時的に何とかなっても、いつしか弱体化していくでしょう。歴史上に大きな足跡を残したキリスト者たちはこの見えないものに心を注いだ人々です。マザーテレサがそうでした。彼女が抱いた信仰とビジョンは多くの人々にとって夢物語でした。カトリック教会は当初彼女のしようとしたことに反対でした。ところが今では、彼女のしたことこそ人類共有の望みであり、真の平和の手段であることを世界は知っています。

信仰にもし相手がいなければ、何の根拠もない「楽観的思い込み」、良くて単なる「信念」です。信念は自分の力に比例し、自分の力が尽きれば、消え去るものです。けれども信仰は神の力に期待することです。神は確かにおられて、信仰によって歩もうとする私たちに手を延べてくださるのです。そして私たちのささやかな目に見えないものへの信仰を支え、お用いになって主のわざをなさるのです。

あなたの信仰があなたを救った、と幾人もの人々にイエスは仰いました(マルコ5・34ほか)。私たちの信仰は正直弱いものです。けれどもその信仰を神はお用いになり、あなたを救う、あなたの家族を救う、世界を救うと言ってくださるのです。今の自分の心を振り返ってみましょう。私たちの心を占めているのは見えるものばかりでしょうか。お金のこと、人材のこと、周りを取りまく環境のことでしょうか。

見えるもの、それは大切です。ちゃんと物事の目算を立て計画しましょう。けれども見えないものの要素がなかったら神はお喜びになりません。信仰の要素を真ん中に入れましょう。そして神がなさることを期待しましょう。(月刊「いのちのことば」2016年3月号掲載)

月刊「いのちのことば」

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