《ウツと上手につき合うには》律法主義からの解放

斎藤登志子

あなたの行動の原則は何でしょうか。「~しなければならない」という義務感でしょうか。それとも「~したい」という自分の心の底からの願望でしょうか。

私が始めて精神科を受診したとき、「うつ病」と診断を下した医師にこう言われました。「must(~ねばならない)がwant to(~したい)になったら治っているのですよ」。そのとき、初めて私は、よい妻、よい母でなければならないなど多くの「ねばならない」に自分が縛られていたことに気づきました。

さらにこの「ねばならない」が信仰生活に当てはめられると律法主義となります。

教会にはなんと多くの「ねばならない」が存在することでしょうか。講壇から直接語られなくとも、自他共に一人前のクリスチャンと認められるためには(そのような意識は撤廃しなければならないと思うのですが)、暗黙のうちにクリアすべき多くの「ねばならない」があります。

礼拝を守らなければならない、毎日聖書を読み、祈らなければならない、十一献金をしなければならない、奉仕は少なくともひとつ以上はしなければならない、集会にはなるたけ出席しなければならない、などなど。

もちろん、これらは神様への感謝の表れとしてなされるならば素晴らしいことですし、「ねばならない」と感じない人がいるならば、その人は恵みの福音を本当に理解しているのだと思います。けれども、義務感や他人への気兼ねから行っているならば律法主義となり、私たちのたましいと精神に悪影響を与えているのです。

しかし、何よりも、義務感からではなく、本当に自分のしたいことをするように心がけるべきです。願望による行為というのは義務感よりもはるかに強く、影響力もあるものです。神ご自身が私たちの心の中に願望を与えてくださっているからです。(ピリピ2・13参照)。

ところで、これらの「ねばならない」という考えはどこから生まれてくるのでしょうか。

親や学校の先生という、教育に直接かかわる人の言動からは否応なしに影響を受けます。また、クリスチャンになってからは牧師や信仰の師と仰ぐ人の影響も見逃すわけには行きません。そのように考えていくと、自分を「ねばならない」という考えに追いやった人を犯人扱いして恨みたくなるものですが、ここであまり犯人探しに熱中しないようにと忠告しておく必要があるでしょう。

恨みや憎しみという否定的な感情のとりこになって生きるのは精神衛生上も決していいことではありませんし、自分を追い詰めた人を赦すことも、そうたやすいことではないからです。それに多くの場合、相手は良かれと思ってしたことで私たちの心に傷を与えていたりするものなのです。

心の病の原因として、遺伝と環境がまず考えられます。さらに、赤星進医師は、第三の要因として本人の反応を挙げています。ですから、病気になったのはすべて自分のせいではないのと同様に、すべてを人のせいにすることもできないわけです。

だれの声ですか

あなたをそこまで追いつめるのは、だれの声ですか。
「しっかりしなさい」
「きちんとしなさい」
「勉強しなさい」
「学校へ行きなさい」
「もっと仕事をしなさい」
追い立てているのは、いったいだれの声ですか。

おとうさんですか。
おかあさんですか。
学校の先生ですか。
職場の上司ですか。
友達がなにげなく言った一言ですか。
それとも、心の中のもうひとりのあなたですか。

でも、もういいでしょう。
その声の主が、だれであっても。
もう、その声に従わなくてもいいでしょう。

あなたはその声にずっと従ってきました。
そして、十分苦しんだはずです。
そろそろあなたをその声から解放してはどうですか。
あなたがあなた自身の人生を生きるために。

(『傷つきやすいあなたへ』木村藍 著、文芸社より)

 過去と他人は変えられないのです。変えられるのは自分の態度だけです。すでに起きてしまったことや、人を恨むのではなく、自分の本当にしたいことは何かを問いかけながら、前向きに人生を歩むようにしませんか。幸せになるのも不幸になるのも、結局はあなた次第なのです。(月刊「いのちのことば」2008年9月号掲載)

月刊「いのちのことば」

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