《パンを水の上に投げよ》自殺の苦しみに福音は届くのか

自殺の苦しみに福音は届くのか

パンを水の上に投げよ

白浜バプテスト基督教会牧師 藤藪庸一

「もう死にたい」との電話の声に、毎回、私はなんと声をかけたらいいのかと悩む。「今どこにいるんですか?」「これから会ってもらえませんか?」早く電話の向こう側にいる方のそばに行きたいと思う。私は何ができなくても、あなたと一緒に歩む覚悟だけはあるんだと伝えたい。「孤独」こそが、人を自殺へと向かわせる最後の引き金なのだ。

イエス様は私たちに「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と教えられた。サマリア人のたとえ話(ルカ10章30-37節)は、愛は持っている物を分け与えるわざであり、時に敵をも受け入れねばならないほど犠牲を伴うこともあるのだということを私たちに教えてくれる。

まさに、白浜教会の活動は、見ず知らずの他人を拒まず、自分たちの持っているものを分け与えて、神様の愛を実践することが求められているのだ。もし「なぜ、これほどまでにしてくださるのですか?」と訊ねられたら、私たちは迷わず「神様は私たちを愛してくださった。その同じ愛で神様はあなたのことも愛しておられるのですよ」と答えるだろう。

田舎にある私たちの教会は、町中の人々の間で、何を語っているかよりも何をしているかが求められている。田舎にとどまらず世の中の人は言葉だけでは納得しないのではないだろうか。実は自殺を考え生きる望みを失った者たちに必要なのは、励ましの言葉以上に“見えるわざ”なのだ。愛から溢れ出る犠牲のわざこそが、神様はおられるという真実を伝えていくのだ。

時には、三段壁の絶壁の上に共に座り何時間でも時間を惜しまずに捧げ、時には、相手の何度となく過ちを繰り返す罪深さを限りなく赦し続け、捨てないという覚悟を何度も言葉にして語る。神様がこの人を愛しているからこそ、私たちはその人のことを決して捨ててはならないのだ。

イエス様は言われた。「もしわたしが、わたしの父のみわざを……行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい(ヨハネ3章38節)。」私たちはこのイエス様に倣う者だから同じように言おうと思う。「私の言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」と。

どんなに力を尽くしても、どんなに犠牲を払っても、結果を見ることのできないこともある。パンを水の上に投げるような働きだと言う人もいるだろう。しかし、神様は必ず報いてくださるお方である。だから私たちは神様に対して誠実でありたいと願うのだ。私たちのわざは、人に対すると同時に神様に対して行っているのだから。

現在6人の男性と共同生活をしているが、この5年間で1日でも滞在した人の数は100人を超える。そのうち、帰る場所がない人が長期滞在しながら自立を目指してきたが、現在白浜で自立しているのは10人。そのうち礼拝に毎週来る人は4人、他6人も仕事などの都合で毎週は来られなくても教会とのかかわりを続けている。

その中でクリスチャンになった男性は、ちょうど4年前の7月の夜遅くに電話をかけてきた。彼は「疲れた」と呟いた。その夜、私は朝まで彼と共に過ごしたが、彼はもう一度やり直す決心がつかず、「一緒にがんばろう」と教会に来るよう勧めたが、その日は良い返事をもらえなかった。私は、彼が死を選ばずもう一度連絡をくれることを信じてひたすら祈りつつ待ち続けた。

そして4日後、彼から電話があったのだ。「お世話になってもいいですか」。彼は4日間、悩み続け、本当にもう一度チャンスがあるなら、力になってくれるのなら、との思いで電話をかけてきたのだった。それから私たち家族との共同生活が始まった。

「神は愛なり」彼の心をとらえたのはこの言葉である。9か月が過ぎた頃、彼は「ここで初めて家族というものを味わった。神様を信じたい」と言った。私たちはただ寝食を共にし、就職活動の手助けをしつつ神様の助けを語り続けただけだった。

パウロは言う。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした」と。私は私たちの犠牲を伴う働きを、神様が確かに祝福され、私たちのわざを通してご自身を現されることを体験したのだ。思い出は、一緒に食べた味噌をぬっただけのおにぎりだ。きっとこの味は私と彼の間をいつも満たしてくれるだろう。そして神様の愛を何度も確認させてくれるだろう。(月刊「いのちのことば」2005年3月号掲載)

月刊「いのちのことば」

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