《旬人彩人》「逃れの街」ミニストリー主催 中村穣

旬人彩人

「Cafe Living Room 61」オーナー/逃れの街ミニストリー主宰
中村 穣・恵(なかむら・じょう/めぐみ)

プロフィール

単立・飯能の山キリスト教会牧師夫妻。
【Cafe Living Room 61】毎週木曜日10時〜Sunset(18時頃)営業。
埼玉県飯能市上赤工131−1 電話090−8106−3008
西武飯能駅北口バス②より20分「畑中」下車。狭山日高ICより車で25分。
www.facebook.com/cafelivingroom61

幼い頃から劣等感を抱え 高校3年の時アメリカへ家出

埼玉県、西武線飯能駅から約二十分、のどかな山道をしばらく車で進むと見えてくるのが「Cafe Living Room 61」。アメリカン・カントリースタイルで、オシャレさに、懐かしさ、温かさも感じる木造の外観。陶芸工房をリフォームした。教会でもあるのだが、外には十字架や大きな看板は見当たらない。ふらっと立ち寄ることのできる場所だ。
穣さんは、一九七一年に東京で生まれた。生まれつき左手の指が無い障害ゆえに、「人と違う」ということを常に意識して生きてきた。
「幼い頃から、劣等感をずっと感じていました。当時はもやしのように細い体で、か弱く、いじめも受けていました。人と関わることに恐れがあり、サッカーや音楽などを通してできた仲間も表面的で、心の中では常に孤独を感じていました」
ついに高校三年の時、学校に行けなくなった。「日本にこれ以上いても生きる希望はない」と単身アメリカに渡った。両親には隠していたが、それは家出だった。もう二度と日本に戻るつもりはなかった。
アメリカでは、クリスチャンの両親の友人である日本人牧師と出会った。
「当時の僕は、金髪にモヒカン、革ジャンに銀のアクセサリーをじゃらじゃらとつけているようなやからでした。どこか人に見下げられることで自分を保っているようなところがあったんです。でも、その牧師は格好なんて何も気にしませんでした。あれ? なんでこの人は僕を見下さないのだろう、と不思議で仕方ありませんでした」
それが恩師・田代幸雄さんとの出会いだった。穣さんはありのままの自分を受け入れられるという初めての経験をした。
その後、田代さんの紹介によりアメリカの大学に入って四年過ごし、単位もほとんど取得し、卒業間近という時に「わざと単位を一つ落とし」卒業せずに、日本に帰国した。
帰国後プロのミュージシャンを目指し活動するも、不摂生がたたり体を壊した。
「人にも自分の体にも悪いことばかりをしていました。ついにどうしようもなくなった時に、母親に教会に行くよう勧められたんです」
そうして導かれた東京フリーメソジスト小金井教会で、信仰をもち、洗礼を受けた。

アメリカの神学校で学び帰国

田代さんに救われたことを報告すると、とても喜び、アメリカの神学校に入るよう勧められた。ミシシッピ州にあるウェスレー・バイブルカレッジで学び、献身の思いが与えられ、卒業後帰国。洗礼を受けた教会で奉仕。教団や超教派の若者伝道、音楽伝道の働きに携わる中で、のちの妻となる恵さんとの出会いも与えられた。その後、上野の森キリスト教会へと導かれ、現在は同教会からの開拓教会として飯能で牧会し、聖望学園聖書科の講師をしながら、毎週木曜日限定で、カフェを開いている。

カフェへの思いは、二〇〇六年に「逃れの街ミニストリー」を始めた時からの願いだった。超教派の働きを通して、中絶防止活動・聖書に基づいた生命と性の啓蒙教育を行う「小さないのちを守る会」の辻岡健象さんとの出会いがあった。
「ちょうど辻岡先生と会う前に、ニュース記事で若いカップルが、ラブホテルで子どもを産み、置き去りにしたという事件を読みました。ちょうど私たちに初めての子が与えられたばかりで、妻はその記事を読みながら泣いていました。
辻岡先生に出会った時、中絶された胎児がバケツに入れられている写真を見ました。そして『働き手が必要だ』と言われました。自分たちに何ができるわけじゃない、ただただ痛みしかないのだけれど、行き場のない人たち、つらい思いを抱える人たちの居場所をつくりたい、と思って活動を始めました」

手作りの「Cafe Living Room 61」

「何をしているかと問われれば、たいしたことをしていないからつらいのだけど」と穣さんは笑うが、行き場のない青年たちを短期や長期で預かり、生活をするということは誰にもできるわけではない。結婚をして、子どもも与えられた家庭に他人を住まわせることは、周囲から反対もされたが、夫妻は神様に祈る中でその一つ一つの出会いを大切に、受け入れてきた。
受け入れた女性の一人がカフェで働き、今となってはカフェに無くてはならない存在になっていることをうれしそうに語る。
「カフェの経営だとか接客は実は僕ら夫婦とも、すごく苦手で(笑)、彼女の存在に助けられているんです。僕らはただその人たちと一緒にいて、涙を流すだけなんです。この人を変えようとかそんな大それた思いはなくって、共に苦しみを負い、神様の元に一緒に行かせていただきたいと思っています。かつて自分が田代先生を通して神様にありのまま受け入れてもらったような経験を、痛んだ若者たちにもしてほしいと思って」
いつしか夫妻の元にはそんな青年たちだけでなく、他の教会で傷つき離れざるを得なかったクリスチャンも集まるようになった。

困難な道の先にたどりついた「逃れの街ミニストリー」

そもそも、なぜ飯能だったのだろうか。そこにも神様の不思議な計画があった。

逃れの街ミニストリーを進めるうえで、都会から逃れて来られる場所をと、土地を探していた。売りに出ていた飯能の陶芸釜付きの物件を見にいった時のこと。売主の高齢の女性が、招き入れてくれた。
「そのおばあちゃんは、ご主人を亡くした後、意気消沈して家に引きこもっていました。思い出いっぱいのこの家にいるのもつらいから、山奥でひっそりと暮らすつもりだと。僕は自分が牧師で、居場所のない人たちの居場所、社会復帰を支援できるような場所を探していると言ったら、おばあちゃんが涙を流して、『あなたたちに売ると決めた』、とおっしゃって。このおばあちゃんが救われるためだけでもいい、ここに決めようと思ったんです」

数か月の準備期間を経て、二〇一三年から教会を開始。その礼拝には彼女の姿もあった。
しかし、陶芸家である彼女の生きがいを残そうと、釜を残すことにしたために登記変更などにお金がかかり、用意していたお金は底をつき、教会と同時にカフェまでは作れなかった。少しずつ自分たちの手でリフォームしたため、二年の歳月がかかり、ようやく二〇一五年、カフェのオープンとなったのだ。

「でも、この二年がとても意味があったんです。なぜこんなことまでやらなくてはいけなのですかと神様に不満ばかり言ってたんですけど(笑)、建物が少しずつ作られていったり、カフェで出すための農作物を畑で作る工程の中で、地域の方々との交流が生まれ、オープンの時には周囲との壁がすっかり取り払われていた。今ではカフェのお客様の八割は地域の方々なんですよ。自分たちとしては不本意だったけど、今思えば、神様のしっかりとした導きだったんだなって思います」

妻の恵さんにも葛藤はあった。

「夫に最初に示されたビジョン。初めは不安でしかなかった。なんで開拓? カフェ? なんで飯能? って。ストレスで円形脱毛症になったりして。『神様、不安です。怖いです』って祈りの中で訴えたんです。すると、『私があなたを守る』ということばをくださったんです。もうそれで十分でした」

生きづらく、責められる場所から逃れること。マイナスに見えるその期間、その場所には、神の計画が確かにあるのだ。共に涙を流すことこそ、主が私たち人間に求めておられる麗しい関係なのだろう。夫妻のはにかんだ笑顔を見ながら、自分の心のうずきを、今なら少し受け入れられるような気がした。【宮田真実子】

<「百万人の福音」2017年6月号より>

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