《特集》もやもや相談室「みこころがわからない!」

  • 2018/8/28
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吉川直美牧師に聞く「もやもや相談室」
「みこころがわからない!」

迷える現代のサムライ「ぴー蔵」が、牧師の「吉川先生」に、神の意志(みこころ)についてぶっちゃけた質問を投げかけてみました。

吉川先生:シオンの群教会の牧師。何を聞いても怒らず優しく教えてくれる先生。

 

サムライ*ぴー蔵:乱世を生きる浪人。自由気ままな今の暮らしに不満はないが、将来を思うと時々不安になることも。神と共に生きたい思いは人一倍強し。得意技は真剣白刃鳥(取り)。

 

 

ぴー蔵
先生! 吉川先生ー!
吉川先生
おや、そんなに慌てて何でしょう。
ぴー蔵
実はそれがし、この度、浪人を辞めることになりそうでござる。
吉川先生
(初期設定が早くも…)。就職するということですか? よかったじゃないですか。
ぴー蔵
しかし、町道場の師範代か、さる高貴なお方の用心棒か、これという決め手がなく判断しかねており申す。できれば神様のみこころの仕事に出合いたいのであるが…。どちらが良いのか如何ともし難く。
吉川先生
祈って考えているのでしょう?
ぴー蔵
無論でござる。されど、神様はいまだ答えを下さらぬのです。見切り発車をして、万一みこころでない仕事に就いてしまうと、いずれひどい目に遭うのではあるまいかと…。
吉川先生
ふむ。先ほどからあなたが言う〝みこころ〟ですが、それが唯一の正解で、それ以外ははずれ、といったニュアンスですね。
ぴー蔵
ち、違うのでありますか!? みこころとは、「神様が我らの人生に計画しておられること」と理解しておりましたが…。みこころに沿って生きることで祝福されると…。
吉川先生
そうですね。でも神様のご計画って、たとえばどの学校に行くかとか、どこに就職するか、といった選択肢のようなものでしょうか。そして、失敗するのは神様のご計画じゃなかったから、となるのでしょうか。私たちがみこころを求める目的が、正しく選択して失敗しないようにというのであれば、占いみたいなものですよね。神様が私たちに与えようとしておられる祝福って、失敗しないとか、そんな狭いものではないと思います。
ぴー蔵
やや! な…なんと!
吉川先生
まず大切なのは、何のためにみこころを求めるのか、ということです。神様の思いと私たちの思い、互いに出し合ってすり合わせ、神様との人格的な交わりを深めていくことに意味があるんだと思いますよ。
ぴー蔵
恐れ多くも、主君に異を唱えるとは!お手討ちも辞さぬ覚悟ですな。
吉川先生
異ではありませんし、覚悟も不要ですよ(苦笑)。みこころを知るためには、自分が何を願っているか、本音を知ることも大切なんです。神様のみこころとかけ離れている自分に出会うこと、動機が自己実現かどうかを見極めることは、神様のみこころと一つになっていく第一歩ですよね。祈り探りながら行動して、結果「違ったかも」とか、「これで良かったんだ」とか思えたりする。それを繰り返すことで、神様が自分に何を願っておられるのか、わかるようになってくるのではないでしょうか。
ぴー蔵
なるほど…。しかし、そもそもみこころとは一体何でござる。沿っている、離れているは、いかにわかるのでござるか?
吉川先生
まず聖書がありますよね。ミカ書には、神様が私たちに求めていること(みこころ)は、「ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」とあります。イエス様はいつも父のみこころに従われて、弱い人を慰め、敵までも赦し、愛によって平和を築かれましたよね。それが大切な基準で、具体的なことについては、人それぞれですが祈りや礼拝説教、デボーション、そして聖霊の促しなどを通して受け取るんじゃないでしょうか。私は「平安があるかないか」が基準の一つです。聖霊が「大丈夫」と平安を与えてくだされば、状況は逆を示していても安心して踏み出せます。なぜなのかその時わからなくても、あとでわかることもあります。
吉川先生
カトリックの人はよく、「識別」ということをやりますよ。祈ったことについて答えを検証しつつ、方向性を考えていくのだそうです。一日の終わり、週末、月末、年末などの節目で、自分がそれまで何を祈ってきて、神様はどのように応えてくださったかを立ち止まって考えてみる。そうじゃないと積み重なっていきませんからね。もちろん、自分が神様に約束したことを本当に果たしてきたかも考える。そういうふうにしていくと、誰でも「自分が神様と歩いている」と感じることができるんじゃないでしょうか。
ぴー蔵
あいや待たれい。実はそれがし、キリシタンの家庭で育ったせいか、基本的に神様任せでござって…。自分に起きること全部「神様が開いてくれた道かも」と、何も考えず受け取ってきたのでござる。よって、「○○したい!」という、神様とすり合わせるような主体的なビジョンがないのでござる…。師範代も用心棒も成り行きで紹介されただけで…。
吉川先生
今は具体的でなくても、「神様が喜んでくださることをやりたい」という思いはあるわけですよね。だったら今は、「どちらの仕事もモヤモヤします」「確信を与えてください」といった祈りでかまわないと思いますよ。究極的な神様のみこころというのは、やはり神様と人、人と人との隔ての壁が取り除かれ、愛の関係が回復していくことではないでしょうか。
吉川先生
そういう意味では、神様のみこころは一つで、普遍的ですよね。私たちがそこに沿って行動や決断をしようとするとき、どのようにすべきかが少しずつ見えてくるのだと思います。そういう意味では、私たちは何を選んでも自由。その判断を通して神様が見せてくださるものは、変わらないと思いますよ。
ぴー蔵
なるほど〜。では神様の喜ばれることを考え、〝すり合わせ〟を重ねれば、いずれ神様のお手を煩わせずとも良い判断ができるようになるのですな。早くその域に達したいものでござる。
吉川先生
いやいや、神様に相談しなくてもみこころが行えるようになることが目的ではないですよね。みこころを求めれば求めるほど、神様に相談せずにはおれなくなるものだと思いますよ。今までは困ったり迷ったときだけ相談していたのが、自分の思い通りに決めたいことも相談したくなる。そして、「神様どうしてですか?」という葛藤も増えていくことでしょう。神様も、私たちに〝飲めない杯〟を与えてくることがあると思います。私たちが「まだ飲めません」と言ったとき、神様は無理強いはなさらないと思いますよ。でも、「いや、今のあなたなら飲める」と思われたときは、神様は飲めるように成長させてくださると思います。
吉川先生
イエス様が飲まれた十字架という杯も、人にはものすごく悲惨に見えても、それが祝福につながったように、神様は人間存在の本質に関わるような祝福をもっと与えようとしてくださる。いつか、「あのことは神様のことをより深く信頼するためだったんだ」とわかる時がきます。みこころって、生涯かけて知っていくものではないでしょうか。でも、神様のみこころはいつも私たちを救い、神様と共に生きる者として回復させようという、そこしかないわけです。だから確信がなくても、聖霊の助けを期待して大胆に、神様が喜んでくださると思うことをやればよいと思いますよ。その在り方が神様のみこころだと思うし、みこころを探ろうとする人を神様は喜んで育ててくださいます。
ぴー蔵
お、恐れ入りました〜。

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