《特集》西郷隆盛と聖書① 愛と赦しの人

西郷隆盛 その愛と赦し

「南洲翁遺訓」誕生の背景

守部喜雅

西郷が流刑された
沖永良部島に再現された牢。
写真:おきのえらぶ島観光協会

薩摩藩士・西郷吉之助が、歴史の表舞台に出てきたのは、1864(元治元)年、5年にわたる流刑地での生活から解放され、蛤御門の変で薩摩兵を指揮して長州藩と戦った時からである。

変後の長州処分に関しては、当初は、強硬論者だった西郷は 、勝海舟との出会いを通し、長州藩の謝罪工作に尽力、戦闘無しで事態の収拾を実現、翌年、坂本龍馬、木戸孝允と西郷が京都に会して薩長同盟を結び、幕府との対決姿勢を鮮明にした。

1867(慶應3)年、西郷は、12月9日の王政復古クーデターの首謀者となり、薩摩、長州、土佐など諸藩の兵士を指揮していた。一方、江戸においては、12月25日の未明、江戸の警護を担当していた庄内藩の藩士が、薩摩藩邸を包囲し砲撃を加えて焼き討ちするという事件が起こった。

なぜ、庄内藩士は、薩摩藩邸を襲ったのか。この事件には驚くべき背景があった。当時、倒幕の機会をねらっていた薩摩藩は、過激な攘夷論者だった益満休之助に命じ、500人程の浪士を集め、江戸の町で放火や略奪を行わせ、江戸市中を大混乱させる策に出た。それは、旧幕府軍側を挑発し、相手が攻撃してくるように仕向けるという策略だったのだ。

江戸市内の警護に当たっていた幕府側の庄内藩士たちは、大混乱を起こした犯人捜しをした結果、その黒幕に薩摩藩がいることを突き止め、薩摩藩邸襲撃を決行したのだ。

西郷の最期を描いた錦絵
国立国会図書館webより

この結果、新政府軍と幕府軍の全面戦争へと突入、鳥羽伏見の戦いとして知られる幕末最大の戦闘が始まった。薩摩藩、長州藩が連合した新政府軍は、1万5千の幕府側の軍勢を相手に激戦を展開、最後は、朝廷から受けた錦の御旗を掲げた新政府軍が勝利を収めた。

しかし、これは終わりの始まりであり、続いて、会津戦争が勃発、東北地方幕府側の諸藩の連合軍と、土佐藩も加わった新政府軍との戦いは熾烈を極め、ついに、会津の鶴ヶ城は落城した。この戦いで、最後まで抵抗したのが庄内藩である。鳥羽伏見の戦いのきっかけとなった江戸・三田の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こした藩だけに降伏した後の処分が厳しいものになることは明らかだった。それだけに負けるわけにいかず、激しく抵抗を続けた。初めは、一進一退で、幕府軍が優勢の時もあったが、ついに、会津藩が降伏、9月25日、庄内藩主・酒井忠篤は重臣と協議のうえ、降伏の断を下した。

降伏式の場は悲壮な雰囲気であったと伝えられる。当然、死を覚悟した藩主も重臣たちも白装束に身を包み切腹を覚悟したという。

ところが、新政府軍の総司令官・西郷隆盛が執った行動は意外なものだった。あたかも、慈父のように庄内藩士を諭し「切腹して詫びるなどとんでもない」、そう言って押しとどめたのだ。

それでも、庄内藩士が、降伏の証しとして武器一切の目録を手渡そうとすると、西郷は驚くようなことばをかけた。

「貴藩は、北国の雄藩じゃ。ロシアからの攻撃に備えて北方の守りをしてもらわねばいけもはん。武器はそのまま、お持ちいただければよか」

死から生へ―

西郷の赦しの前に、庄内藩の藩主、家老、家臣一同、皆、感涙にむせんだ。その場にいた長州藩の前原一誠は「西郷先生という方はどれくらい大きいか底知れん」と感嘆したという。

城を明け渡す時に言った西郷のことばがある。「敵となり味方となるのは運命である。一旦、降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」。そう言って、西郷は、官軍のほうには、丸腰になるように命じ、庄内藩には帯刀を許した。そして、処分は、藩主の謹慎、それも、わずか2年の謹慎で終わらせたのだ。

藩主・酒井忠篤の謹慎が解けたのが1869(明治2)年のこと。彼はさっそく、藩士70余名を連れて、薩摩にいた西郷を訪ねている。その時は、なんと一行は100日以上鹿児島に滞在し、西郷との面談を繰り返してはその教えを記録していった。

やがて、旧・庄内藩の重臣・菅実秀は、若い藩士たちから西郷の話を聞くにつけ、自ら鹿児島を訪れ、西郷の語ったことばを編集して、1冊の本にすることを決意。こうして、出来上がったのが『南洲翁遺訓』である。しかし、明治10年の西南戦争で、賊軍の汚名を着せられた西郷が名誉を回復するまで、この西郷の語録は陽の目を見ることがなかった。

1889(明治22)年2月11日の憲法発布の日、政府は西郷を特赦し、ようやく、『南洲翁遺訓』は公に出版された。

南洲とは、西郷隆盛の雅号である。そして、西郷を慕う人々によって、この120年前に出た本は、今も読み継がれ、語り継がれている。

さて、今から120年も前に、英文で出された『代表的日本人』は、キリスト教思想家・内村鑑三が、海外の人々に、日本人の真実を理解してもらおうと書いた歴史的名著である。その本の最初に出てくるのが西郷隆盛なのだ。内村にとって、西郷こそ、代表的日本人として世界に紹介したいという熱い思いがあった。

では、内村は、どこに西郷の真実を見いだしたのか。

彼のこんなことばがある。

「敬天愛人の言葉には、キリスト教でいうところの律法と預言者の思想が込められており、私としては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」

“敬天愛人”ということばは、明治になって、西郷が好んで書にしたことばである。これまでの日本古来の思想には出てこない概念に、内村は、その壮大な教えを西郷はどこから得たのかと驚きをもって問いかけている。『南洲翁遺訓』には、次のような西郷のことばがある。

「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり」

このことばについて、内村は、「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は、守るべききわめて恵み豊かなものとして理解されていたようだ」と解説している。西郷が“敵を赦し生かした”という歴史的事実の背景には、キリスト教の影響があったのではないか、と推論しているのだ。

2007年の暮れ、鹿児島市にある西郷南洲顕彰館で開かれた「敬天愛人と聖書展」で、それまで、キリスト教との関係があまり知られることのなかった西郷が、実は、聖書をよく読み、それを人にも教えていた、という証言が紹介された。当時の顕彰館館長の高柳毅氏は、西郷の「敬天愛人」には、新約聖書マタイ福音書五章の「あなたの敵を愛しなさい」とのイエスのことばが大きな影響を与えているとの見解を示し、「西郷さんは、晩年にはキリスト教を信じておられた」と語っている。

拙著『西郷隆盛と聖書』(フォレストブックス)は、そのような歴史の中に葬られていた真実を掘り起こしたものである。
<「百万人の福音」2018年2月号より>

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西郷隆盛と聖書
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