《福祉と福音―弱さの福祉哲学》第5回 弱さのクリスマス

同志社大学社会学部教授 木原活信

 数年前のこと。親しくしている、当時6歳になる自閉症の甥、H君が通っている洛西愛育園(京都基督教福祉会の運営する知的障害児通所施設)のクリスマス会に招待されて参加したときのことである。施設恒例のクリスマス礼拝の降誕劇で、H君がヨセフ役をやることになったのだ。
 現在、その社会福祉法人の理事としてかかわっているのだが、いわゆる「普通の」会話ができない彼がどうやってこの大役をこなすのか、実は当日までイメージがつかなかったので不安であった。自閉症の特徴であるが、彼は一つの場所でじっとしておられず、こだわり行動がきつく、また重度の知的障害も伴っているので、人前で劇などやることができるのか、実は半信半疑だったのである。さて、その当日、父母を中心とした観客たちが見守る期待と不安の中、そのヨセフが登場してきた。マリヤと一緒に宿屋を探すあの場面で、彼は「うおー」と第一声を発したのだ。そして、博士たちの礼拝と贈り物を受ける場面でも、同様に「うおー」「うおー」「うおー」と三度、堂々と見事に「語り」、劇の間中もじっとそこに座っていた。これには正直驚いた。
 現代社会の「力や強さ」に価値観を置く尺度でいえば、無視されてもおかしくないほどの「弱い、無力な」一言だったかもしれないが、彼をよく知る者にとっては、それは驚きであり、施設での4年間の療育活動の確かな成果であったと確信した。ふとみると、彼の母親の目には大粒の涙がこみあげているのが見えたが、これがすべてを物語っていた。
 観客を見渡すと、わが子を撮影しようとするビデオや、カメラの数は「普通の」幼稚園や小学校の劇などと比較にならないほどである。可愛いいわが子が登場すると、たとえそれが「うおー」の一言であろうが、寝たまま何もしゃべらなくても、親は必死にわが子の姿(存在そのもの)を見つめ続けている。ここには、他人と比べた「強さ」を求める競争意識の「眼差し」は皆無である。
 これは、「存在そのもの」をオンリーワンとして見つめる神の「眼差し」に近いのかもしれないと思った。

 降誕劇は、客観的に言うと言葉のない、まるで無声映画のようであった。正直に言うと、今まで数多く見た降誕劇のどれよりも、演出も演技も「最低レベル」「弱さの極み」であったのは事実である。しかし、そこには、これまで見たどの降誕劇よりも、クリスマスの本当の意味を伝えるリアリティが充満し、不思議な「神聖な」感覚にとらわれたのは、H君の成長に感嘆した感傷のせいだけではなかっただろう。
 劇に合わせて朗読されるルカの福音書1、2章に出てくる「暗黒と死の陰にすわる者たち」「野宿で野番」「宿屋には彼らのいる場所がなかった」「飼葉おけに寝て」……という舞台(場所)は、人間の競争社会から外され、周縁に生きざるを得なかった者たちの必死な「弱さ」の叫びの場であったということ。ところが、赤子となったイエスを通して突如、そこが〝神の恵みの座〟と変わったという奇跡。これこそ〝クリスマスの本当の意味〟なのだと、初めてリアリティをもって立ち現れた気がした。そこにこそ、「ナザレのイエス」の地上の生涯の鍵があるように思われた。
 神が人間の姿となった(受肉)。それは、別の見方では、人(親)に支えられなければならない赤子として産まれた、という驚くべきことを忘れてはならない。
 このイエスは、最も弱い立場にいる者の近くにおられ、母マリヤが預言したように、「権力ある者を王位から引き降ろ」し、「低い者を高く引き上げ」る方に、ほかならない。
 この逆説的な「弱さ」の中にこそ、パウロが、主の力は「弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12・9)と断言したとおり、福祉と福音の真理が隠されているように思える。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」「私が弱いときにこそ、私は強いから」と大胆に語ることができるのも、パウロの見栄や男の意地からではなく、彼自身がイエス・キリストを知ったリアルな実体験であり、そして、それは聖書が語る普遍的な福祉と福音のメッセージであるのではないだろうか。
 クリスマス・イルミネーションで街が賑やかになるこの時期に、改めてその深い意味を静かにかみしめたい。(月刊「いのちのことば」2014年1月号掲載)

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