《自分の闇と向き合う》情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして

  • 2018/12/6
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自分の闇と向き合う

闇とは?

ニューライフフェローシップ教会 創立者 ピーター・スキャゼロ

だれにでも闇があります。では、その闇とは何でしょう?

それは、抑制の効かない感情、不純な動機、思考の総体であり、たいてい無意識ではありますが、私たちの行動に大きく影響し、形成するものです。そして、それは傷ついている自分、多くの場合、隠されている姿です。

闇はいろいろなかたちで突然現れます。あるときは、完璧主義ゆえに人を裁くこと、怒り、妬み、憤り、情欲、貪欲、敵意として現れます。あるいは、人を助けなければならないとか、人々に好かれたい、注目されたい、働き続けてしまう、孤立しがちになる、融通が利かないといった、わかりにくいかたちで現れることもあります。闇の様相は罪深いものもありますが、ただ単に弱さであったり、傷から来るものであったりする場合もあります。闇は、自分が傷つくことや、自らの弱さがさらされることから身を守ろうとするときに現れるようです。つまり、闇とはただ単に罪を表す言葉ではないということです。では、闇とは何でしょうか。つきとめるのが難しいと思うなら、そのとおりです。心理学者コニー・ツヴァイクとジェレマイヤ・エイブラムスは、「闇はその性質上、とらえがたいものだ。それは危険で、手に負えないもので、常に隠れており、まるで良心の光がその明るさを奪われているかのようだ」と言います。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの有名な小説『ジキル博士とハイド氏』を読んで、私は自分の闇が、「立派な自分の姿」のすぐ裏側に隠れているものだと理解することができました。日中、ジキル博士は多くの友人を持ち、人から尊敬されるような立派な生き方をしています。しかし夜には、暴力的なハイド氏として街をさまよい歩くのです。ジキル博士は初め、影のようなハイド氏の側に浸ることができるのを楽しんでいましたが、次第に二つの人格の間を行来することがコントロールできなくなっていき、一番タイミングが悪いときにハイド氏になることが増えていきました。ジキル博士が、まもなく自分はハイド氏になってしまうのだと気づき、自ら命を絶つところで物語は終結します。スティーヴンソンは、ジキル博士の闇の部分をまぎれもない悪と表現しましたが(私たちが言う闇はそうではありませんが)、私は特に、ジキル博士が、自分の闇の現実に向き合うのを、何が何でも避けようとしていたところに共感します。

では、闇はリーダーシップにどのように現れてくるでしょうか。例を挙げてみましょう。

  • リーダーはたいてい話す能力、人々を動かすことに長けています。それは良いことです。このような能力の闇の側面は、人からの賞賛に満足できないところです。人前で罪を悔い改めたり、自らの失敗を分かち合ったりすることさえ、無意識に人からの賞賛を求めて行っている場合もあるのです。公で話すことに長けている人々にとって、その能力を、人と距離を置くために使っていることも、稀ではありません。
  • 私たちリーダーは崇高なものに価値をおきます。それは良いことです。しかし、崇高さを追い求めるあまり、間違いを決して許さない完璧主義になってしまうとき、それは闇となります。完璧主義は、自分の中にある恥を隠す一つの方法になってしまいます。
  • 私たちは神の真理と正しい教理を熱望しています。それは良いことです。しかし、それによって自分とは立場の違う人々を愛さなくなるとき、それは闇となります。正しい教理を熱心に求めることは、自分がふさわしく、正しいと感じることのできない自信のなさや恐れによって、突き動かされているからです。
  • リーダーはキリストのために、教会がその最大の力を発揮することを願っています。それは良いことです。しかし、リーダーが目標を達成することに夢中になってしまい、人の意見を聞かず、ともに働いている人々と歩調が合わなくなってしまうとき、それは闇となります。その裏にある動機は、自分の働きに対して人からの賞賛を求めることにあるかもしれません。
  • リーダーは人に仕えることが好きです。それは良いことです。しかし、人々が教会に集まる際、人と話すのを避けて、台所に隠れてしまうとき、それは闇となります。人と近くなることから自分を守る方法なのです。
  • 別な町で新しい任務に就くことになりました。それは良いことです。しかし引っ越す直前に、他のリーダーと、以前なら何の問題にもならなかったことで喧嘩になってしまったとき、闇が現れました。それは、悲しみを認め、「寂しくなりますね」と言うよりも、そうするほうが簡単だからです。……

闇だけが本当のあなたではない

自分の闇を理解し、向き合おうとすると、多くの人は次のような極端な考え方を持ってしまいがちです。一つは、「私は全くだめな人間だ。私はとてつもなく罪深く、私の中には何も良いものがない」(ローマ七・一八参照)。もうひとつの極端な意見は、「私はすばらしい。私はキリストにある新しく造られた者であり、神に素晴らしく造られた聖徒だ」(Ⅱコリント五・一七、詩篇一三九・一四参照)。どちらにも真理の一片はありますが、どちらかだけでは聖書を正しく理解しているとは言えません。闇と健全に向き合うには、健全なバランスを持っていなければなりません。

どんなときにも、私たちはバランスの悪さと矛盾を引きずっています。たとえば、時として私は自らの弱さをさらけ出します。またあるときは、自己防衛に走ります。時には優しいですが、あるときは偏見に満ちて優しくはありません。説教を準備したり、物を書いたりするときにはよく働きますが、新しいテクノロジーを学ぶときや、一人で静まる時を持とうとするときには怠惰になります。人前で話すときには落ち着いていますが、時間に追われて多くのことをしなければならないと不安になります。仕事、リーダーとしての働き、教会での責任を果たすことに関してはよくやりますが、家族の休暇を計画することに関してはあてになりません。また、さまざまな文献から学ぶときは素直に受け入れますが、自分と相反する見解を持つクリスチャンから学ぶことに対しては頑なになり、排他的です。

神は、このような矛盾した現実があることをそのまま受け入れて自分を理解し、リーダーとしての自分を作り上げていくようにと招いています。私たちには宝があり、自分自身も宝であることを知っていますが、それを土の器に入れています(Ⅰコリント四・七参照)。

闇の部分こそが自分の真の姿なのだという嘘を信じるなら、私たちはそのことに圧倒され、自分には何もできないと降参するしかないでしょう。そうすれば、それには重大な結果がついてきます。逆に、闇を無視すれば、大きな代価を払わなければなりません。(『情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして』第2章より一部抜粋)

情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして 内面の成長が、家族を、教会を、世界を変える
ピーター・スキャゼロ [著] 鈴木茂・鈴木敦子 [訳]
576頁 定価2,800円+税

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