《試し読み》新刊『こころの「雑談外来」本日も診療中。』

  • 2018/7/12
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イラスト 桂川 潤

《試し読み》新刊『こころの「雑談外来」本日も診療中。』

芳賀真理子(よしが・まりこ)

精神科医・駒込えぜる診療所(メンタルクリニック・心療内科・精神科)院長。1993年、筑波大学医学専門学群卒業。同年、日赤医療センター精神神経学教室入局、1995年、慶應義塾大学医学部精神神経学教室入局。病院勤務を経て、2008年に駒込えぜる診療所を開院。
都会の片隅で魂の居場所を見つけてほしいと、2009年より診療所で聖書の勉強会を行っている。また、自らの体調不良改善のために始めた筋力トレーニングがきっかけとなり、診療に「栄養指導付きの筋力トレーニング」を連携させる試みを始めた。
自宅と仕事場を黙々と往復する自称「働くひきこもり」。目下の趣味は津軽三味線。
診療所HPの院長ブログ「ころころえぜる日記」

本文より[一部抜粋]

自分を諦める

自分の「欲」からは、自分を救い出せない。
 このことは、心底自分を諦めるきっかけとなった大きな転換点でした。それまで、社会の中では自分にひきこもるかたちで折り合いをつけてきており、自分自身が自分の魂の身元引き受け人のようでした。
 小さい頃、違和感を覚えてはふらり家出を企てておりましたが、親元を離れてはどうやって生きていけばいいかわからず、ぶらぶら自転車で自宅が見える範囲内を巡った後、やっぱり家に戻る、ということを繰り返していました。でも今回は戻るところがない。自分に戻れない。かといって人にもたどり着けない。ものすごい混沌が、闇が、この自分の中にある。自分が見ず知らずの他人のようで、どうしようもなく心細い。どこにもつながっていない、でもどこかにつながりたい。と、湧きあふれるかのように、それまでに感じたことのないほどの切実な疼きがありました。
 どうにかして助けてもらいたい。何かに、助けてもらいたい。自分でも人でもない何か、何かないのか。あてどなく、しかし痛みは激しく、ひたすら「助けてくれ~、助けてくれ~」とうめいていたところ、そのうち「神様助けてくれ~」とジタバタうめきだし。
 へ?
 神様、って今、自分言うたな? そうそう。神様っていうのがあったわ。神様といえばキリスト教。で、クリスチャンである友人に連絡を取り、ゲンキンにもさっさと教会に行ったのでした。
 しかしなんで、「神様といえば宇佐八幡」とならなかったのか、なんで「仏様、助けてくれ~」にもならんかったのか、それも謎であります。拙者、小さい頃から近くの宇佐神宮(八幡総本宮)には初詣でよく連れていかれておったんじゃが。
 と、自分ではよくわからんところで人生は流されていくもののようです。……

筋力トレーニング・オールアウトによる筋肉の破壊と修復

診療所と自宅の引越しが完了した後もそのまま、拙者の心は心細さにちんまり縮こまっていて、ぷるぷる震えておりました。職場も自宅も同時引越しとなったためどちらの環境にも慣れず、自分の居場所がなくなった感じがしておりました。どこにいてもくつろげない緊張感から、日増しに心身の疲れが強くなってきます。移転後半年ほど経った頃には、身体の関節のあちこちが痛みきしみだしてきており、これはなんとかしなければと思い、自宅近くを散策していて見つけた、ムキムキのお兄さん方の、「ぅおおおっ!」とかの気合の声がとどろくトレーニングジムに入会したのでした。
 別にそういうのが好きだったわけじゃないんです、拙者。ほんまに普通の、ごく普通のフィットネスジムを探していたんです。でも、そういうマニアックなところしか、自宅近くにはなかったんです。なので、ここにきてさらに心ぷるぷる震えつつ後ずさりしつつの入会となりました。
 そのトレーニングジムはパーソナルトレーニング専門ということで、拙者にもムキムキのトレーナーがつくことになり、毎回重い足と後ろ向きの心を引きずりつつジムに通うこととなったのでした。なぜそんなに抵抗感が強かったのかというと、ひとえにとんでもなく予想をはるに超えて、トレーニングがきつかったからです。もともと社会人になってから運動らしい運動はしてきておらず、運動の習慣がないところで、ダンベルだとかバーベルだとかの負荷をかけつつ筋力をつけていこうとするわけです。
 ただ、本質的なところでのきつさの問題は、そもそも筋力トレーニングにおける考え方にあるのでした。筋力トレーニングでは、「もうこれ以上、筋肉が動きません」「もう余力はゼロです」というオールアウトといわれる状態まで追い詰めていくことが求められます。こうすると、「今までの体では対応できません。対応できるように体を変化させないといけません」となり、筋肉は変化を要求されることになるのです。その結果、筋破壊・筋量減少・修復を通し、結果的に筋力・筋量をアップさせていける、ということのようなのです。コンディショニング的なトレーニングであればもう少し違ったのですが、筋トレの王道をひた走るムキムキのトレーナーによって、拙者は毎回毎回、「これ以上できません。降参であります」というところまで追い詰められておりました。

砕かれる

ところで、聖書には、「砕かれた(心や霊)」という言い回しがあります。これは日常的な場面でも「心砕かれる思い」など耳なじみがある表現でもあり、それはたとえば、大きな悲しみか衝撃のゆえに、心が徹底的に意気消沈してしまった状態、というイメージでしょうか。
 ここでその悲しみや衝撃は、信仰的な視点から見ていくと、自分自身の罪に対しての神の取り扱いというかたちで捉えられるわけです。もちろん罪とは関係なく、環境的な要因で試練や困難を体験しますが、いずれにしても原型をとどめないほどに心を粉々に砕かれたとき、心からの悔い改めをし、徹底的にへりくだらされることがあります。それが「心砕かれた」状態で、聖書の神はそのような心砕かれてへりくだった人と共に住む、と聖書にはあります。
 ところでこれ、筋力トレーニングの手法に似ているんです。
 トレーナーである神が、鍛えようとする人の心を徹底的に追い詰めていき、心を砕く。「もう、自分の力ではできません、降参です」というところまで追い詰めて、その人の心が変化せざるを得ない状態にもっていく。破壊と修復を繰り返し、信仰面において筋力や筋量がアップするというイメージにつながるのは、悔い改めとへりくだり、愛する力のことなのかもしれません。
 こういうふうに捉えていくと、痛みが痛みで終わらなくなります。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました」(『新改訳聖書』詩篇より)と詩篇作者はうたいます。拙者の場合、「あなたは私のために、嘆きを筋力トレーニングに変えてくださいました」と言っても、およそ意味が通らないものです。が、筋力トレーニングの原理を通し理解できたのでした。自分の心の醜い部分に直面させられ降参し、自分にとっての大切な思いからからも引き剥がされ、心震え心砕かれたときの嘆きも、神によるトレーニングの過程であり、その嘆きが踊りに変わるはず、いや、すでに心はぷるぷる踊っていたのかもしらん、と。
(『こころの「雑談外来」本日も診療中。ひきこもり院長のつれづれ日記』より)

こころの「雑談外来」本日も診療中。
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