《M.L.キング没後50年》現代こそ問われる言葉

“現代こそ問われる言葉” M.L.キング没後50年 米国、日本で

終わらない“夢”=慈しみに満ちた共同体

米国・ルイビル日本語教会 カンバーランド長老教会牧師 佐藤岩雄

4月になり、全米各地でキング牧師没後50年のイベントが行われている。都市部ではキング牧師が行ったマーチを記念して、記念式典会場までを行進する人々の姿が新聞などで大きく取り上げられた。私の居住するケンタッキー州でも州都であるフランクフォートで行進があり、社会正義実現のために銃規制のプラカードを掲げる人の姿も見受けられた。

今から10年前、キング牧師没後40周年式典が全米各地で行われた際、私はテネシー州メンフィスにあるメンフィス神学校に留学中であり、メンフィス大学大学院とキング牧師についての協同研究を行う幸いを得た。その発表のために、国立公民権博物館での式典に招かれた時に経験した会場の興奮は、今でも新鮮に覚えている。大統領選に向けて波に乗りつつあったオバマ氏の存在は、黒人の社会的立場向上の輝ける希望のように語られていた。米国社会は確かに変わりつつあるという実感を、多くの人々が感じていた。それから10年を経た現在、私が米国南部ケンタッキー州ルイビルの日本語教会牧師として仕えて8年目となる。

人種問題はマグマの様に

今、特に米国南部で何が起きているのだろうか。キング牧師が主導した公民権運動の結果、米国連邦政府が、1964年に公民権法を制定したことの価値は、言い過ぎることの無いほどに高く評価される。一方で、公的には封印された人種間の闘争は、マグマのように地下に潜みながら、時折、小さな出来事を契機として火を噴くことがある。バージニア州シャーロッツビルに立つ南北戦争時の南軍指導者、ロバート・リー将軍の銅像撤去の際に起こった衝突は、記憶に新しい。

メンフィスでは、KKK(クー・クラックス・クラン)の創設者と言われる南軍の将であったネイサン・ベッドフォードの彫像が、昨年の暮れに公園から、警察が厳重な警備をする中で撤去された(むしろ、黒人が半数以上を占める都市の中心に、これまでKKK創立者の彫像が存在していたこと自体が、米国社会の複雑さを表しているのだが)。このように米国において、公民権運動の成果は、現在でも、確実に社会に浸透し続けていることを感じることができるが、同時に自民族優位主義の露骨なまでのデモンストレーションも顕著になってきている。

現在、米国は経済的には好景気と言われながらも、人権問題は確実に後回しにされている。このような社会における人種の分断は教会にも影を落としている。3月8日のニューヨーク・タイムズ紙は、「静かな出エジプト:なぜ黒人の礼拝者は、白人の福音派教会を去るのか」という記事を掲載した。時として黒人の会員が人種差別の痛みを述べても、白人の牧師や他の会員に共通の課題として受け止められることが難しく、落胆して教会を去る様子などが述べられている。

畳みかける言葉の土台

しかし、この閉塞感の漂う現代米国社会においてこそ、50年を経てキング牧師の言葉に傾聴する意義を唱える者も多い。プリンストン大学名誉教授で人種問題についての影響力ある学者であるコーネル・ウェストは「マーティン・ルーサー・キングJr.は急進的であった。もし、彼が今日生きていたら、その言葉は、今、彼を称賛している人のほとんどが脅威に感じるほどだろう」(現地時間4月4日ツイッター)と述べている。

確かにキング牧師の歩みは、晩年においてより現実的に、また、急進的になっていった。ベトナム戦争反対はそのひとつの例と言える。キング牧師は、その最後の説教で、非暴力を貫き「危険なほどに自己を捨てる姿勢」を説きながら、歯に衣着せぬ言葉で抑圧者への批判を展開している。ただし、このキング牧師の説教の言葉を根底で支えていたのは、神の国を待望する楽観的な神学であり、それは最後まで変わることはなかった。

キング牧師の説教は、黒人教会の伝統を色濃く反映している。かつて奴隷として文字を学ぶことを禁止されながらも、彼らは歌を通して自分たちの歴史を共同体の中で伝えていった。ブラック・ゴスペルでクワイアーは楽譜を見ない。どんどん楽譜を離れ、自由に即興で歌っていく。現実への悲嘆、差別への怒り、楽観的な神への信頼、それらが渦巻くようにして、き、叫び、喜びの歓声をあげながら歌いあげていく。

キング牧師の説教における畳み掛けるような連続の言い回し、クライマックスの即興性は、このような教会文化の中で醸成されたものである。黒人教会の財産が米国社会に共有され、公民権という実りをもたらした。これが、米国教会史におけるキング牧師の説教の大きな意義と言えるだろう。

その変化は、現在のような混沌の中でこそ、また新たな光をおびるはずである。現在、頻発している衝突の温床になるのは、白人を含めた「自民族優位主義」である。しかし、キング牧師が最後まで語り続けたのは、赦しと非暴力によって実現する「慈しみに満ちた共同体(beloved community)」であり、これは、今の時代にこそ必要な言葉として響いてくる。

少数者のリアリティー

最後に卑近な話で恐縮だが、私自身も、日本語教会の牧師をしながら、このような民族や言語の枠を超えた共同体形成の祝福と課題…と言ったらかなり大袈裟に聞こえるが、一言で言えば牧師としての喜びと至らなさを、日々経験している。そんな中で時折、ドライブ中などにキング牧師の説教を聞くと、とても勇気づけられることがある。それは、やはり私たちが異国においてマイノリティーとして生きているからなのかもしれない。

こう考えると、日本社会も、社会格差の点でも、外国人の増加においても近年ますます多様化している。もしかしたら、キング牧師の言葉がより深いリアリティーをもって日本の教会に迫ってくるのは、むしろこれからの時代なのではないだろうか。【クリスチャン新聞2018年04月22日より】

写真=Wikimedia Commons

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