新潟キリスト教の旅<1> イザベラ・バードの見た明治期の日本

  • 2018/6/8
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2018年7月号特集

「新潟キリスト教の旅」<1>

 江戸時代の長い鎖国から解かれた日本が、最初に開いた5つの港があった。横浜や函館とともに、実は新潟もその1つだった。どの開港地でも、早い時期からキリスト教の宣教師によって伝道が始まっていた。そんな新潟エリアで、キリスト教ゆかりの場所や話題を巡る旅へ向かった。

 

英国人冒険家 イザベラ・バードの見た明治期の日本

イザベラ・バード

 1878(明治11)年、1人の英国人女性が、新潟を訪れた。
 新潟は、幕末期に日本で5つだけ認められた開港地の1つだった。冒険家であり、紀行作家であったイザベラ・バードは、外国人が行ける場所には制限があった時代に特別に許可され、日本人通訳と一緒に旅をしたのである。彼女の残した紀行文は、鋭い観察眼による詳細な記述にあふれ、当時の日本の状況をリアルにかいま見せてくれる。それは、16世紀に来日した宣教師ルイス・フロイスの書いた『日本史』に、信長や秀吉が生き生きと描写されたことを思わせる。

 彼女は、同年6月から9月にかけて、東京から日光、新潟を経て、北日本各地を巡りながら北海道へと至る旅をした。その旅行記では、新潟について数章を当て、「美しい繁華な町」と書き残している(日本書名『完訳 日本奥地紀行』平凡社刊)。
 彼女が新潟に寄った主な目的は、「パーム医師が進めている医療伝道活動について学び知ること」だった。彼女は、この本の中で、キリスト教未伝地への伝道について熱く記述し、好奇心旺盛な冒険家であるとともに、熱心なクリスチャンであったことをうかがわせる。その記述の中で、福音を知らない日本人社会に身を置いてみて、自分が信仰によって永遠のいのちを与えられながら、福音を伝えていないことを「利己的で冷淡であるのを恥ずかしく思う」と書いているのである。
 新潟に入った彼女は、医療伝道をしていた医師、セオバルド・パーム宣教師(英国・エディンバラ医療宣教会)と、当時、新潟に住んでいたもう一人のプロテスタント宣教師、ファイソン宣教師夫妻(聖公会)に何度も面会したようだ。二人の宣教師は、バードと同じイギリス出身だった。彼女は、特別な旅行許可書を得るため、駐日イギリス公使館のハリー・パークスやアーネスト・サトウの力を借り、謝辞を本書の中で述べている。その交流の中で、新潟にいる同郷の宣教師のことを聞いたのかもしれない。

セオバルド・パーム宣教師
(英国・エディンバラ医療宣教会)

 当時、新潟では、カトリックが1871(明治4)年に、2年後には聖公会がファイソン宣教師を派遣して伝道を始めていたが、あまり成果は出ていなかった。
 そこに20代のパーム医師が、1875(明治8)年に加わることになった。前年に来日して間もなく、東京・築地の居留地で妻と生後間もない子を亡くすという悲しい出来事がありながら、彼は新潟で精力的に働いた。当時は珍しかった外科治療などの西洋医学で目覚ましい結果を出すとともに、日本人伝道者の助けも借りながら、待合室では聖書講話を行い、新潟の市街地を出て治療に回る際には伝道集会も行った。
 まだ西洋医学への恐れもあった初年度の診察者数は五百人ほどだったが、4年後には5000人を超え、その治療効果の高さが知れ渡ったようだ。それとともに、パーム医師への信頼も厚くなっていった。
 バードは彼の伝道への取り組みについてこうつづっている。
 「氏は言葉[日本語]も熱心にかつ根気よく学んでいる。話し言葉だけでなく書き言葉もである。日本人の国民性についてもしっかり調べ上げている。(中略)キリスト教[伝道]の前途に諸困難が横たわっているとの認識を強め、その将来についてのあらゆる希望的観測を避け、すべての時間と能力を注ぎ込まねばならない今の仕事を遂行することに満足している」
 その結果、着任以来4年間で31人に洗礼を授けたという。その数年前まで耶蘇教(キリスト教)を信仰することは死を意味していた社会の中で、この数字は重いといえる。

 バードの新潟滞在は9日あまりだったが、その紀行文には、鋭い日本人観察が含まれていて、驚かされる。おそらく2人の宣教師から聞いたことによる考察として、彼女は日本人の宗教心について、現代にも通じる記述を残している。
「キリスト教の普及にとって難しいのは、……<続きは月刊「百万人の福音」2018年7月号で>

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