神の沈黙に迫る2つの物語:映画「沈黙」と「アメイジングジャーニー」

  • 2018/10/3
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映画「沈黙」と「アメイジングジャーニー(神の小屋)」を見て

【プロフィール】塩谷 達也
シンガー、ソングライター、プロデューサー。カルチャーセンターでのクワイヤーディレクターも務める。ソロ・アルバム「琴音」、妻の美和さんとのアルバム「主の祈り」などをリリース。著作に『ゴスペルの力』(フォレストブックス)

 

出会いの中で答えられる神

神はなぜ沈黙しているようにみえるのか

もしあなたが神を信じ、これまでクリスチャンとして誠実に歩もうとしてきたのなら、その歩みの中で、誰にも答えることのできない神への問いがあっただろうと思います。胸の奥に沈んで、ふだんは思い出すこともないような…。そんな重い問いかけを、誰もが心の中にもっていると思うのです。そして、それらの一つ一つは、この大きな神への問いにつながっていくのではないでしょうか。
「神はなぜ沈黙されるのか?」
『神の小屋』では、幼いわが子を奪われた父親がこの重い問いを叫びます。なぜ、自分の子が奪われなければならなかったのか? なぜ神は助けてくれなかったのか? 彼はこの問いの中に閉じ込められ、感情的にも霊的にも硬直化し、そこから抜け出せません。家族もまた彼を助けられず、教会にも通ってはいますが、神を遠い存在のように感じています。
僕は数年前、韓国賛美ツアーの時、『神の小屋』の原書『The Shack』を手にしました。読んでいくうちに涙があふれ、まるで心が癒やしの旅をするような、それはとても鮮烈な体験でした。僕の中の、ふだんは意識しないけれどずっとこだわっていた問いに触れられたような気がしたのです。日本語版も読み、映画「アメイジング・ジャーニー」も見て、今回、原書を初めて読んだ時に泣きながら印をつけた箇所も読み返しました。

 

出会ってくれる神

そんなShack大ファンの僕がお伝えしたいこの作品のすばらしさは、ズバリ「出会ってくれる」ところです。父なる神、イエス、聖霊が、主人公に出会ってくれる。彼(人間)の方からではありません。僕ら人間の心はかたくなで、自分に閉じこもりがち。心では願っていても、なかなか出会いに行けない。たとえ宗教的な行為を重ねても、努力だけでは不可能。まるで放蕩息子の兄のように怒って疑問を抱えたまま、祝宴が待っている父の家に入れないのです。
神は、そんな僕らに招待状をくれて、よかったらおいでよと誘ってくれて、そこに行けばすばらしい時を備えてくださって、何よりも僕らと人格と人格で出会って一緒に時を過ごしてくれるのです。そこには、ことばに表せないほどの親密な出会いと交わりがあります。型にはまった儀式や上下関係や制度の代わりに、おいしい食事があり、豊かな会話があり、一緒にいろんなことをします。
私たちは、信頼できる友や家族や兄弟姉妹との親しい交わりがどれほどうれしいことか誰でも知っています。胸の中のわだかまりが親友と過ごす短い時間の中で吹き飛んでしまうこともあるでしょう。だとしたら、すべてのいのちの源である三位一体なる神との出会いと交わりは、どれだけいのちに満ちたすばらしいものでしょうか!
主人公は、まず、この三位一体なる神と出会い、共に過ごす時の中で自由に憩います。そこには強制はありません。ただ一緒にいるのです。へつらう必要もありませんし、わからないことはわからないと言える関係です。寛容と赦しと愛に満ちた主の永遠の庭の中で、急ぐ必要はないのです。
その信頼関係の中で、今度は僕らが知ることになります。日々どれほど自分一人で生き、自分の思いで人を裁き、自分の判断で神を裁いているのか。神は善なる方であることを、全き思いで信じられていないことか。すべての「神はなぜ沈黙されるのか?」の問いは、僕らの罪と罪からくる傷と不完全さから生まれているのだということを、神と過ごす最高の時間の中で知ることになるのです。
そして、父なる神への信頼の中で、自分を赦し、感情的にはつらいままでも、自分を傷つけた人を主にゆだね、毎日、三位一体なる神と一緒に時を過ごす。映画の中でイエスが笑顔で言うことばが忘れられません。「一緒ならもっとうまくいくよ」。一人でやってしまいがちな僕らをご存じで、一緒にやろうよ、と言ってくださる方となら一歩一歩、共にやっていけるような気がするのです。

 

イエスの声を聞きながら

一方、映画「沈黙」では、苛烈な迫害に棄教を迫られた宣教師ロドリゴが「神はなぜ沈黙されるのか?」の問いを投げかけます。それはわが国の歴史に起きた、信仰者の究極の試練と選択であったのかもしれません。僕がこの映画を見て改めて思わされたのは、人は人を裁いてしまうということです。そして、できることなら誰のことも裁きたくないということです。殉教していった者、踏み絵を踏んで転び伴天連になっていった者。その心内は本人と神にしかわからない。信仰とはそういう個人的な神との関係性なのだから。踏み絵を踏まなくて済むならそれに越したことはない。でも、信仰が強くても弱くても、共にいてくださる方がおられることにこそ目を留めていきたい。
踏み絵を前にしたロドリゴに語りかけるイエスの御声が忘れられません。僕らにできることといえば、そのイエスの声を聞きながら、イエスと一緒に一瞬一瞬を過ごしていくことしかないのではないかと思うのです。【「百万人の福音」2017年7月号より】

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