《福祉と福音―弱さの福祉哲学》 第3回 自分自身を愛すること

同志社大学社会学部教授 木原活信

 前回に続き、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22・39)というみことばを考えたいが、今回は「あなた自身のように」という言葉に着目したい。多くの人が、「あなたの隣人を……愛せよ」という言葉だけを取り上げてしまう傾向があるが、「あなた自身のように」というもう1つの重要なメッセージを無視してしまっているように思う。これは文脈から見ても、自己中心的な自己愛を奨励し、肯定しているのでないことは明らかであるし、聖書全体が自己中心を否定していることは言うまでもない。新約聖書のパウロの書簡も、「だれも自分の身を憎んだ者はいません」(エペソ5・29)という前提により、“自分の妻を愛する者は自分を愛している”と説明している。
 つまり、自己を大切にし、尊重することは人間にとって当然であり、その前提に立って、それと同様に他者を愛しなさい、ということなのである。
 だが今回、改めてこのことを取り上げるのは、その当然であるはずの前提が、今崩れてきているからである。特に日本の若者の状況は深刻である。世界でも注目されている日本の若い女性に多いリストカット、摂食障害などは、いずれもセルフイメージにかかわるものであるとされている。様々な国際調査でも、日本の若者のセルフイメージが極端に低いことが問題視されている。財団法人日本青少年研究所の日・米・中・韓の四か国の調査では、「私は価値のある人間だ」「自分を肯定的に評価するほうだ」「自分に満足している」「自分が優秀だと思う」など、自尊感情を示す項目で、日本の高校生が最も低い結果が示された。
 確かに、私の周囲の真面目で優秀な学生たちの中にも、自分を大切にできず、「自分自身への嫌悪感」を表明する学生が多いことに驚いている。言い換えれば、ありのままの自分自身を受け入れられないということになる。あるいは、自分が赦せないと表現する人もいる。これはむろん若者だけではなく、日本人全体の意識でもある。
 その原因には、様々なことが考えられようが、1つは幼少の頃より競争を強いられてきたことや、受験の激化なども一因であろう。家庭で、学校で、社会で周囲からその人自身の存在自体ではなく、その人がなした行為によってのみ評価されることが習慣化してしまった結果ということである。行為ではなく、存在として受け入れられ、愛される感覚が喪失されているという深刻な状況になっている。
 いずれにせよ、子ども時代より自分を尊重し、大切にすることを学ぶ必要がある。そうでないと、他者を愛するということは不可能になるからである。
 それでは、この自尊感情はどこから生まれるのか。それは自分の存在自体に対して絶対的な愛を受けること(自己肯定観)から生まれる。行為を評価されて愛されるのでなく、自分自身の存在が愛されているという経験である。これは通常、幼少期より親から得られるものであるが、不幸にもそれが達成されない場合はどうなのか。ここに、福音の力が期待される。仮に家庭に恵まれなくても、親から愛されない不幸な幼少時代を過ごしたとしても、イエスを通して一方的な神の愛を経験することにより、自分が神にあって赦され、受け入れられ、そして愛されていることを自覚することほど自尊感情を満たすものはない。

 社会福祉援助は、援助者と利用者の関係性を基本とする。他者である隣人とかかわり、愛し、その隣人を受容することが求められる。実はその前提として、まずは援助者自身が自分自身の存在をありのまま受け入れること、すなわち自己受容が不可欠なのである。むろんこの自己受容には、完成はない。絶えず、自分を知り、それを受け入れていく訓練が必要とされる。神学者ニーバーの祈りは、この点において洞察深い。
 「主よ。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを(serenity)。変えられるものは変えていく勇気を(courage)。そして2つのものを見分ける賢さを(wisdom)」とあるが、この祈りに示されているように、援助者は、自己の背伸びした姿(虚像)ではなく、自分自身の存在をありのまま受け入れていく落ち着きと勇気が必要である。それは、「主よ」という呼びかけにあるように、神への信頼によって、初めて本当の意味で可能となる。こうして、隣人(他者)を愛する前提が成り立つのである。(月刊「いのちのことば」2013年11月号掲載)

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