《ふり返る祈り》第3回 不安と恐れ


斉藤 善樹(さいとう・よしき)

自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた3代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。


恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
イザヤ書41章10節


神様、私は何を恐れているのでしょう。先が見えない不安でしょうか。人から批判される恐れでしょうか。自分が傷つけられる恐れでしょうか。その恐れゆえに、私の心は縮こまり、さまざまなことを先延ばしにしています。けれども恐れは消えません。主よ、すべてはあなたの御手の中にあります。世の何ものもあなたの愛から私を引き離すことはありません。どうぞ、あなたと共に今、私の道を歩ませてください。 恐れなく一歩一歩前に進ませてください。一歩進むごとにあなたの励ましと慰めがそこにあります。

本当は私たちは何が恐いのでしょう。真に恐れているのは何でしょうか。心の恐れの大きな部分は、人への恐れによって占められています。それは人があなたを見る目であり、あなたを評価する声です。人は自分をどのように見ているか気になります。彼らを満足させるようなことを自分は持っているだろうか気になります。自分は人に批判されないような行動をとっているだろうか。あなたは大きな声で人から怒鳴られたことはありますか。悪口を言われたことがありますか。無視されたことはありますか。叩かれたり殴られたりしたことはあるでしょうか。人間はそういうことに麻痺することはあっても、慣れるなんてことはありません。その度にあなたの自尊心は傷ついています。そして人への恐れが蓄積されます。

批判はあなたを傷つけます。建設的な批判でさえあなたを落ち込ませるなら、憎しみと怒りをぶつけるような非難はどれだけあなたを傷つけることでしょう。ある人が苦手ですか。その人の姿を見ると不安になりますか。その声はあなたを動揺させますか。その人のあなたへの評価があたかもあなたの存在価値を決定するように感じていますか。その人から愛されないなら、あなたは自分に価値がないように感じているのではありませんか。その人があなたのことを喜ばないならば、あなたのしていることは無意味だと感じるのですか。あなたは不本意ながらも彼らにへつらうことばや態度を取ったりします。その後、惨めな気持ちになるのです。あなたの恐れているのは、そのような人の目や声があなたを無価値にすることなのです。あなたは時に怒ったり、言い返したりします。けれども空虚感は残ります。

あなたは幼いとき、親に叱られたことがありますね。どんな気持ちだったでしょうか。それはそれは悲しく、親に愛されていないかのように打ちのめされたのではないでしょうか。何とか親に愛されたい、喜ばれたいと思うけれどそれが出来ない自分に悩んだことはないでしょうか。あなたはいつでも人から愛されること、喜ばれることを望んできました。けれども、もしあなたがその願望だけに自分の人生を終始させていたら、その願望以外のことは出来なくなってしまいますね。

あなたは日毎に、まず神様によって愛されていることを知らねばなりません。神のあなたへの愛は、人の非難や褒めことばに関係なく、絶えずあなたに注がれ、あなたがあなたであることを神は喜ばれています。そして、あなたは人を喜ばせることよりも神の喜ばれることを優先するように望まれています。あなたは人のことばに真摯に耳を傾けねばなりません。けれども人のことばが、神のあなたへの愛を揺るがすことはありません。

私たちは時にはっきりとものを言うべきことがあります。人にとってはあまり聞きたくないことを敢えて話さなければならない時があります。人に喜ばれること、愛されることを常にあなたの優先事項にしていたならば、人があまり喜ばないことは語れないでしょう。

私たちは人の目の中の塵をとやかく言う前に、自分の目の中の梁を何とかせねばならないことは事実です。けれども聖書は知恵を尽くしてお互いの過ちや罪を戒めることを命じています(コロサイ3・16)。ですから、私たちは自分への戒めを素直に受け入れつつ、神からの愛を土台にして、愛をもって語るのです。あなたがもっとも見据えねばならないのは、あなたの内にある恐れの心そのものです。もう一度お聞きします。あなたの本当に恐れているものは何でしょうか。(月刊「いのちのことば」2015年12月号掲載)

月刊「いのちのことば」

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