《寄稿・奥田知志》アフガン支援中村哲氏 銃撃逝去

  • 2019/12/26
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《寄稿・奥田知志》アフガン支援中村哲氏 銃撃逝去

寄り添う”超え“共に生きた

 12月4日、アフガニスタン東部で発生した銃撃事件で、NGO「ペシャワール会」現地代表の医師・中村哲氏を含む6人が死亡した。外務省は「強い衝撃と悲しみを覚えます。亡くなられた方々の御遺族に対し,心から哀悼の意を表します」とする大臣談話を発表した。
 中村氏は、1984年から社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)よりパキスタンに派遣され、パキスタン人やアフガン難民のハンセン病治療、一般診療に携わり、アフガンニスタンでは灌漑(かんがい)水路敷設活動に貢献。2008年にペシャワール会の若手スタッフ伊藤和也氏がアフガニスタンで拉致・殺害された後も、現地に留まり活動を続けていた。88年の外務大臣賞を初めとして、国内外の多くの賞を受賞している(一部ペシャワール会として)。
 今年9月には、沖縄キリスト教学院大学の沖縄キリスト教平和総合研究所で講演した。同研究所の内間清晴所長は、「『大事なことは生きること、命こそが大切』と言っていたが、そこに沖縄の「命どぅ宝」と共通した思いを感じる。講演では、『外国人として出来るお手伝いはするけれど、自分の価値観や正義は決して押し付けない』との言葉に多くの人が感銘を受けた。“寄り添う”を越えて、現地の人とともに生きた人。そこにキリスト者の生き方を見る思いがする」と語った。

平和築く願い共に JOCS会長 畑野研太郎

 中村哲医師の御逝去を心から悼み、み霊の平安をお祈りするとともに、ご家族、ご友人、そしてペシャワール会の皆様にお悔やみを申し上げます。皆様のうえに、豊かなお慰めが与えられますように祈ります。また、彼と共にお亡くなりになった方々とそのご家族に、哀悼の意を表します。

 中村哲医師は、1984年5月より、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からパキスタンのペシャワールにある「ペシャワール・クリスチャン・ホスピタル」に派遣され、語学研修の後9月より病院に勤務開始されました。当初、内科その他の診療もする予定でしたが、地域のニーズ等も考慮してハンセン病に専念することとし、ハンセン病病棟の責任者として、ハンセン病に苦しむ方々に全力を尽くして寄り添い、90年5月まで当会派遣医師として働いてくださいました。

 現地で働かれる中からペシャワール会を立ち上げ、アフガニスタンからの難民の医療、さらにはアフガニスタン国内の人々の必要に応える働きへと仕事を深められ、井戸の掘削事業、灌漑用水路事業へと、人々の命にとって最も必要とされることに向かって精力的に進まれました。彼のような働きをできる方は、本当に稀であると思います。彼の偉大な功績を思いますと、彼の命が奪われてしまったことは、本当に残念です。また彼自身の中でもっと働き続けたいと願っていたことを思うと、さぞかし無念であったと思います。こういった加害者たちを出さないでよい「平和」を築くことこそが、彼の願いであったと思うからです。

 いささか個人的な思いを付け加えさせていただきます。

 彼の悲報を耳にいたしましてから、まったく落ち込んでいます。私はJOCSの第二回海外医療協力者会議の準備委員として、パキスタンに第一期赴任を控えた中村哲氏と、1週間にわたって、海外医療を志す同志として、また同じハンセン病医療を目指すものとして、ワンケオ(タイ国)の小さなバンガローで寝起きを共にし、様々に話し合う機会を与えられました。それから32年間、尊敬する先立ちとして、本当に人々の必要に応える働きを精力的に続ける尊敬すべき先立ちとして過ごしてくださいましたことを、心から感謝申し上げます。と申しましても、とても忙しい彼と最後にゆっくり話すことができたのは、2010年5月12日、岡山で開催いたしました日本ハンセン病学会の市民公開講座の講演者としてお迎えした夜が最後となりました。この世では、もうあのように親しくお話をすることができないと思いますと、復活のときが来ることを信じているキリスト者ではあるものの、本当にさびしさに打ちのめされる思いです。

 働きの場は違っても、彼の目指した「真に平和な世界」「みんなで生きる世界」の実現に向かって、これからも小さな歩みを続けていくことを願い祈っております。
 み霊の安らかな眠りをお祈りいたします。
(JOCSホームページから転載)

誰も行かぬなら私が行く   ―追悼 中村哲さん
東八幡バプテスト教会牧師 奥田知志

 中村哲さんが銃撃を受け亡くなった。僕は言葉を失った。書けないという思いと書かなきゃという思いが錯綜している。だが自分のために少し書こうと思う。

 ペシャワール会が始まった1983年、僕は大学一年生だった。大阪の釜ヶ崎で日本の現実を知らされた。90年東八幡教会に赴任。その後、細々とホームレス支援を始めた。実は、当時ペシャワール会の報告会が東八幡教会で行われていた。今や中村さんの講演会となるとすごく大勢の人が集まるが、その頃は数十名の小さな会だった。中村さんの活動はすでに圧巻だった。でも、僕はひねくれていた。海外で活躍する中村さんに対し「日本の困窮者はどうすんだ」という歪んだ気持ちで斜に構えた。数十名であっても熱心な支援者が集うペシャワール会の報告会に対し、ホームレス支援の集会には数名も集まらない。僕は嫉妬した。

 ペシャワール会の初代事務局長は佐藤雄二さんというお医者さんで、中村さんと大学同期。この方は、東八幡教会の会員だった。僕の赴任した年に病に倒れられ、翌年43歳で召された。26歳、新米牧師だった僕はこの方の最後の日々からいろいろと学ばされた。葬儀は、九大と肥前療養所の合同葬となった。列席された数百人の前で説教をすることになった。新米牧師はビビりながら、あれこれ話したと思う。式の途中にアフガニスタンから中村さんが到着。現地の衣装のまま会場に現れた中村さんは「雄二、なんで死んだ」と絶叫された。「私は牧師さんのようには語れない」とも仰った。それは「そんな上手に話したらダメだ。そういうことじゃないんだ」という意味だと僕は受け取った。牧師になって二年目、僕は「それらしい話」をしたんだと思う。中村さんには、浮ついた言葉は通用しなかった。恥ずかしかった。

 佐藤さんもそうだが、中村さんの活動は多くのスタッフに支えられていたと思う。今回も現地スタッフなど5名が一緒に殺された。彼らの死も忘荷李活道れてはならない。
 中村さんとは、その後何度か講演会などでご一緒させていただいた。あの日のトラウマからか、あまりお話ししなかった。お互い、「ああ、お久しぶりです」と笑顔ですれ違った。
 僕が中村さんから最も影響を受けたことばは、「誰もそこへ行かぬから、我々がゆく。誰もしないから、我々がする」だった。この言葉を違うフィールドで僕は大事にしてきた、つもりだ。中村さんには到底及ばない。覚悟も足りない。しかし、この言葉が僕を常に励ましてくれた。
 「誰も行かない」のはなぜか。危ないからだ。だったら「私が行く」と、中村さんはアフガニスタンに向かわれた。今回のことはその帰結でもある。しかし、こういう生き方が無ければ現実を変えることはできない。「危ないから行かない」と言ってしまえば、すべては終わる。キリスト道、十字架の道とはそういうことなのだろう。
 中村哲さんを世界が追悼している。世界が悲しんでいる。しかし、悲しみを憎しみに変換してはいけない。それは、中村さん自身最も忌避されることだろう。そうではなく、僕にとっての追悼は「どこに行くべきか、何をすべきか」を静かに祈りつつ考えることだと思う。
 中村哲先生。お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。僕も先生に勇気をもらい、もう少し先に行ってみようと思います。では、いずれ天国でお会いしましょう。その日、僕は、「浮ついた言葉」ではなく、現場の言葉で話ができればと考えています。(寄稿)
(クリスチャン新聞オンラインより)

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