《特集》もやもや相談室「休まらない安息日」

  • 2019/1/29
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吉川直美牧師に聞く「もやもや相談室」3
「休まらない安息日」

お疲れクリスチャンの「ニャンた」が、牧師の「吉川先生」に、安息日についてぶっちゃけた質問を投げかけてみました。

吉川先生:シオンの群教会の牧師。何を聞いても怒らず優しく教えてくれる先生。

ニャンた:毎日の仕事でちょっとお疲れクリスチャン。もやもやした疑問をニャアニャアとぶつける。
にゃんた
ヒタヒタヒタ…(足音)。
吉川先生
こんばんは、ニャンたさん。おや、どうしました? 花の金曜日というのに目が死んでますよ。
にゃんた
花じゃないですよ。明日の土曜日、休日出勤になってしまったんです。明日仕事したら、来週末までほぼ休みがないんですよ…。
吉川先生
あれ? 日曜は勤務日でしたっけ?
にゃんた
違いますよ。でも日曜は朝から礼拝で、午後はマタタビ愛餐会と「礼拝堂キャットウォーク増設委員会」があるから、一日中、心も体も安まらないですよ。最近特に、僕にとって日曜は休みじゃないんです。
吉川先生
なるほど。
にゃんた
先生、教会がこんなに忙しくていいんですか? 安息日なんだから、もっと信徒を休ませることに心を配るべきなんじゃないでしょうか。
吉川先生
ふむ、言いたいことはわかりますけどね。ニャンたさんは、安息日ってどんな日だと思いますか?
にゃんた
それは…休む日でしょう。神様が創造の七日めにみわざを休まれたから(創世記2・2、3)、私たちも休むべきだと…(出エジプト20・11)。
吉川先生
ほう。何のために?
にゃんた
さ、さあ…。でも、働いちゃいけないって言われてますよね。旧約聖書にもそう書いてありますもん。
吉川先生
そうですね。確かに、神様が七日めに休まれたから、私たちも神様に似せて創られたものとして、休息をとって創造主に目を向ける、という側面もあります。でもそれだけが、安息日の目的ではないんですよ。
にゃんた
え?!
吉川先生
旧約聖書を見てみましょうか。申命記五章の十二〜十五節には、安息日の規定として休むこと、周囲の者を休ませることが書かれていますが、〝神様が、エジプトの地で奴隷だったイスラエルの民を解放してくださったことに思いを馳せなさい〟とも書かれています。
吉川先生
つまり〝安息日を守る〟とは、自分や周囲の者を休ませ、神様が解放してくださったことを思い起こして共に感謝する日として、日常から取り分けるということなんです。それは、神を愛すること(申命記6・5)や、隣人を愛すること(レビ19・18)の実践でもあったんでしょうね。
にゃんた
なるほど…。つまり、新約の時代以降に生きている僕たちにとっては、罪の奴隷から解放してくださった神様を思う日なんですね。そしたら、日曜は自分のことをしたりのんびりしたりせず、礼拝でしっかり聖書を読んだり祈ったりしなきゃですね。
吉川先生
実はね、そういうふうに「○○しなきゃいけない」「○○しちゃいけない」というのは、安息日の本質ではないんですよ。神様が私たちを解放して得させてくださった自由というのは、〝私たちが神様を礼拝する民として生きていく自由、つまり神様が創造してくださった、神のかたちとして生きること〟なんです。礼拝って、「しなきゃいけない」〝義務〟ではなく、本来は〝自由〟だったはずなんですね。
吉川先生
だから安息日規定というのも、「守らなかったら救ってやらないぞ」というのではなくて、神の民に与えられた祝福なわけです。イエス様の「山上の垂訓」(マタイ5〜7章他)も同じで、あれは御国に入る〝条件〟ではなく、御国に生きる者への〝約束〟であり〝道案内〟なんです。それが、いつの間にか〝条件〟にすり替わってしまったんですよね。
にゃんた
そういえば、イエス様も律法学者やパリサイ人とずいぶん言い合いましたよね。安息日について。
吉川先生
そうですね。当時、律法学者たちは聖書に書かれていないことまで安息日規定に盛り込んで、人々を裁いていました。それに対してイエス様は、安息日の本来の意味を取り戻させるような指摘をなさっています(マタイ12・1〜13他)。
吉川先生
またパウロも、安息日の本来の意味について言及していますよ(コロサイ2・16他)。安息日というのは、義務とか禁止といった規則を守るためではなく、神様との関係の回復、それ以外のものの奴隷からの〝解放〟のためにあるんです。
にゃんた
そうだったのか…。
吉川先生
ええ。私たちが罪から解放されたこと、これからも神様にあって解放され続けていくことのしるしであって、最終的に私たちが神様の民として生きていくようになるためのね。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、「エジプトにいたほうがよかった」と言うシーンがありますよね(出エジプト16・3)。私たちも同じように、罪から解放されてもまたそこに戻ってしまう、という闘いの中にあるんです。だから、「私たちは主のもの、主にあって解放されている」という宣言を定期的に確認して、またそこから社会に遣わされていく、というサイクルが必要なんですよ。
吉川先生
だから安息日は単なる休みではなく、自分も、周囲の人も、解放する必要がありますよね。ふだん「○○でなければいけない」と縛られていることから解放されて、「私たちは世の価値基準に縛られてはいないんだ」ということを確認する。そして、周囲の人もそこから解き放つということ。そう考えると、礼拝や交わりも、互いに一週間を振り返って励まし合う場として考えられるんじゃないかな。もちろんキャットウォーク増設委員会もね。そしてその実践が、教会の外にも広まっていけばいいね。
にゃんた
先生、それを聞くとちょっと心が穏やかになりました。僕は今まで、「どうして僕ばっかり」とか思ってしまってましたから。神様や教会のみんな、そして僕自身のためなんですね。
吉川先生
ニャンたさんは奉仕が〝義務〟〝拘束時間〟になってしまってたんですね。
新約聖書にマルタとマリア姉妹の話が出てくるでしょう(ルカ10・38〜42)。マルタはイエス様のために一生懸命だったけど、それが逆に他人を非難することになってしまいます。イエス様をお招きした目的はイエス様のことばを聞くことだったはずなのに、むしろそれをしているマリアを妨げてしまっている。
吉川先生
私たちはマルタのようになりがちですよね。安息日は、主人であるイエス様にもてなしていただいて、みことばを聞いて〝栄養〟をもらう日です。でも安息日がそうなっていないとしたら、ひょっとしたら何かをやり過ぎているのかもしれません。「何のために安息日を取り分けるのか」という動機づけがないと、いろいろとしんどいだろうと思いますよ。
にゃんた
うん、確かにしんどかったです。そういえば先生、そもそも安息日を取り分けられない人はどうなりますか? 日曜日が仕事の人とか…。先生もある意味〝仕事〟の日ですよね、牧師なんだし。
吉川先生
それがね、ニャンたさん…。私のことを言うと、正直、守れているかというと厳しいと思います。今の生活だとなかなか難しい。でも、日曜日は確かに私にとって〝仕事〟の日なんだけど、御国の福音について語って、教会からまた一週間遣わされていくということに関して言えば、信徒の方々と大差はないと思ってるんですよ。それはそれで安息日ではあるかな、と。
にゃんた
なるほど。でも先生、休み自体はもうちょっと取った方がいいと思いますよ。
吉川先生
ありがとう。神に創造されたことを忘れてしまわないように、率先して安息日の恵みを受け取らないと、ね。
ところでさっきの、日曜に仕事がある人の場合だけど、多くの教会ではイエス様の復活を記念して「安息日=日曜日」となっているけど、週に一日を神様のために取り分けるという意味では、日曜でなくとも、他の曜日でもかまわないですよね。
吉川先生
もちろん、礼拝をおろそかにしていいという意味ではないし、人間は礼拝や教会から離れて、一人だけで神様との関係を回復したり、信仰を深められるかというと、そんなふうには造られていないんですよね。それに、原則的な曜日が定められているのも、ある意味神様のあわれみだと思いますよ。日が決まっていないと、自分の気分や都合に左右されたりするじゃないですか。神様は私たちのそういう弱さもご存知で、、「週一」という神様の創造の〝リズム〟、つまり人間にとってベストの〝リズム〟で備えてくださっているんだと思います。深呼吸して、神様の愛をいっぱい受けるように。
吉川先生
だけどもしそれができないなら、自分なりに工夫したり、周りの人たちは、その人を批判するんじゃなくて助けになれたらいいですよね。たとえば、教会が霊的ガイドなどを活用して、一週間を振り返って神様との関係を深められるよう導くとか。そうやって、それぞれ工夫できることを一緒に考えていく。それが「隣人を休ませる」ことにもつながるわけだし、自分も周りの人も、いろんなものの奴隷であることから解き放たれて、一緒にイエス様を喜ぶ。神様を神様として崇めることができるようになっていく。それが、神様が創造された世界と人間が回復していくことであり、御国での安息にもつながるのではないかと思いますよ。
にゃんた
よくわかりました、先生!
吉川先生
仕事も頑張ってくださいね。
にゃんた
ありがとニャー。

「百万人の福音」2018年4月号より〉

 

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