《特集》もやもや相談室「終末が怖い!」

  • 2018/12/14
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吉川直美牧師に聞く「もやもや相談室」2
「終末が怖い!」

迷える現代のサムライ「ぴー蔵」が、牧師の「吉川先生」に、神の意志(みこころ)についてぶっちゃけた質問を投げかけてみました。

吉川先生:シオンの群教会の牧師。何を聞いても怒らず優しく教えてくれる先生。

 

サムライ*ぴー蔵:毎日の仕事でちょっとお疲れクリスチャン。もやもやした疑問に切り込みます。
ぴー蔵
ううう…。
吉川先生
おはよう。どうしたんですか、顔色が黄色いですよ。
ぴー蔵
これは生まれつきです。実は、礼拝で黙示録の講解を聞いて、怖くなってしまって…。
吉川先生
怖い?
ぴー蔵
はい。世の終わりに飢饉や戦争、災害が頻発して、さらには大迫害が起こるという…。それなのに、「再臨を待ち望みましょう」だなんて…。艱難の何が待ち遠しいのさ。私はむしろ、今のうちに死んでおきたいです。
吉川先生
おやおや、極論ですね。ぴー蔵さん、どうやらあなたは、黙示録に対して「世の終わり(破滅)が予言された書」というイメージをもっているようですね。牧師の説教をちゃんと聞いていましたか?
ぴー蔵
(ほとんど寝ていた)え? でも昔からそう教えられてきたのですが…。
吉川先生
そうですね。確かに少し前まで、「悔い改めないと滅びがくるぞ」と、恐怖心を煽るかのように伝道してきた傾向がありますね。ですが最近は、それでは〝脅し〟になりかねないと、福音の提示のしかたが見直されているんですよ。

吉川先生
黙示録が終末について預言された書であることに間違いはないでしょう。ですが、同じ終わりでも「滅び」ではなくてむしろ「完成」。神様が計画された、人類とこの世界の救いの完成です。「再臨を待ち望む」とは、神の支配が天にも地にも完全に成し遂げられることを待ち望む、という意味なんですよ。
ぴー蔵
え、でもそんなの全然知りませんでした。だって世界の終わりって言ったら、映画でもゾンビが大繁殖したり、地球が爆発したり…。
吉川先生
そういう一般的なイメージに引っ張られやすい箇所かもしれませんね。ただでさえ、黙示録は象徴的なことばで書かれていますから。教会でも取り上げられることが少ない箇所の一つではないかと思います。それは、過去に「滅び」が強調されてきたことの反動とか、「いろんな説があって複雑だ」という事情もあるでしょうが。
ぴー蔵
確かに、いっぱい説があってわからないんです。携挙は艱難の前だとか後だとか、千年王国がないとか…。どれが正しいんでしょうか。あと、その象徴って何を表しているんでしょう。ここだけの話、私は〝獣〟ってトラ○プのことじゃないかと思ってるんです。
吉川先生
個人名はちょっと控えておきましょうか。そうですね、それぞれの記述の解釈、出来事の順番など、終末に関してはかなり説が分かれます。未来のことですから、どの立場が正しい、とは現段階では言えませんね。それに、どんな説をとっていたとしても、「これが絶対正しい」として他の説を否定できるものではないですよね。

吉川先生
それに象徴の解釈のことですが、「聖書のこの記述は何を意味しているか」を具体的な人物や出来事に一つ一つ当てはめていく読み方って、暗号の解読のように、「いつ、何が起こるか」を知りたいからですよね。終末についてですから、知りたいのは当然です。

吉川先生
でもイエス様は、「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです」(使徒1章7節)と戒められました。だから、「いつ、どんな時に」起こるかを知らせることが黙示録の目的ではないんですよ。

吉川先生
もちろん、象徴的な表現だから理解しなくてよいということではなく、読み取るべきものがあるはずですね。だからこそ、恐怖心や興味本位から解釈するのではなく、神様がどういう意図で黙示録を書かれたか、真剣に取り組んでいく必要があると思います。「情報や知識を得たい」というよりも、「神様のみこころを教えていただきたい」という謙虚な思いでね。でないと、独りよがりな読み方をしてしまいますからね。
ぴー蔵
そうかあ、なるほど。そうすると、今の段階で何が起こるかと恐れたり、振り回されたりする必要はないんですね。
吉川先生
そうですね。大切なのは、地に足のついた終末観をもつことだと思います。これがあるかないか、どういう終末観なのかで、生き方にも大きく影響してくると思いますよ。
ぴー蔵
へえー、たとえば?
吉川先生
たとえば、終末に対して「滅びがくる」という認識だと、「この世は悪くなって滅びが近づいているから、とにかく伝道しなくちゃ」となるでしょうし、「万物が贖われる」と思っていると、「贖いの豊かさ確かさを、みんなにも伝えたい。それまでの間、託された責任を果たしていこう」となるかもしれませんね。
ぴー蔵
あっなるほど。じゃあ、終末のことばかり考えていると、この世のことはどうでもよくなるし、どうせまだこないと思っていると、この世のことばかりになったりするんですね。でも先生、確かに終末ってなんだかピンとこないんです。日本では迫害もないし。
吉川先生
でも、いつの時代でも、イエス様が来られるまでは、獣に象徴される力による支配と、小羊イエスによる支配の闘いの中にあるわけですから、迫害がいつどこで起こっても不思議はありませんよ。
ぴー蔵
迫害怖いなー…。拷問に遭って羽をむしられたらどうしよう。絶対耐えられなくて、救いから落ちてしまうと思います。
吉川先生
私だってできれば迫害には遭いたくないですよ。自分を過信することはできませんしね。でも、万一〝踏み絵を踏む〟ようなことがあっても、「信仰なんて意味がなかった」と思ってしまうのか、「こんな自分でも赦されて、御国に迎えてくださる」と信じるのか。簡単に主を否んでいいわけではないけど、拷問に耐えられない私たちの罪・弱さのゆえにも、イエス様が血を流してくださったということに信頼していいと思いますよ。

吉川先生
それに、これも終末観にかかわることですが、艱難がくると思うと、終末は怖い印象がありますが、神様のみこころを探っていくことで、怖さのさらに先にある神様の約束・祝福が見えてくるのではないでしょうか。黙示録は、私たちへの励ましと慰めの書だと思いますよ。大事なのは、目先の怖さよりも、最終的な神のご計画の成就を見据えて生きる、ということだと思います。
ぴー蔵
へえ。それって具体的にどうしたらいいんでしょうか。
吉川先生
たとえば、迫害のあるなしにかかわらず、イエス様が悪の勢力に完全に勝利されるまでは、私たちは獣の権力の及ぶ中で生きていかなければいけませんよね。そのような中で大切なのは、この世の価値観にのみ込まれず、神の支配の及ぶ生き方をしていくことではないでしょうか。

吉川先生
油を絶やさなかった少女たち(マタイ25章1〜13節)のように、主人が帰ってくるのを心待ちにし、みこころに沿った生き方をするのか、「まだ大丈夫」と眠りこけるのか。それが、私たちが問われていることだと思います。
ぴー蔵
今が終末であってもなくても、常に置かれている場で、神様と共に誠実に生きていくことが大切なんですね。
吉川先生
そうそう! いいですね。

「百万人の福音」2018年4月号より〉

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