《特集》サタンと同居する世界での生き方

  • 2019/10/30
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サタンと同居する世界での生き方 Q&A

「悪霊」や「サタン」は聖書に出てくるにも関わらず、クリスチャンでさえ、本気で意識することは少ないかもしれない。しかし、現時点では、空中の権威はサタンに渡されていると聖書に書かれており、時に穏やかな表情で人に忍びよって誘惑する。悪魔に対抗する仮装でにぎわうハロウィンを機会に、サタンの正体を確認し、どう向き合ったらいいかを考えてみたい。聖契神学校の関野祐二校長に、サタンと同居する世界での生き方についてアドバイスを頂いた。

関野祐二 1959年生まれ。1990年に東京基督神学校(現、東京基督教大学)を卒業し、牧師に。現在、鶴見聖契キリスト教会牧師、聖契神学校校長

「悪魔くん」?

 1993年、都内の某市役所に「悪魔」と命名された男児の出生届が提出され、その是非を巡って裁判沙汰となった出来事がありました。子どもの福祉を害する親権の乱用か、常用漢字のみを用いた命名手続きの正当性が争われましたが、結局は親側が似た音の別名に変えて受理され、一件落着したようです。
 一般社会においても「悪魔」はうれしくないことばのはずですが、某漫画家のキャラクターに「悪魔くん」はいましたし、人を手玉に取る輩を「小悪魔」と呼んだり、アイドル3人組の「やさしい悪魔」なんて歌もありましたっけ。
 では私たちは、「悪魔」「サタン」とどう向き合いますか。それとも避けましょうか。なお、「悪魔」は一般名詞、「サタン」は「(神の)敵対者」が原意のキリスト教で用いる悪魔の呼称ですが、混ぜて使用します。

3層の世界観

 聖書教理を体系化して学ぶ組織神学では、サタンを「天使論」の一部として扱います。この世界は、超越した神の領域と、自然科学の対象領域との間に、目には見えないが人間の能力を超えた被造物としての天使(御使い、主の使い)の領域があります。聖書にもミカエル(ダニエル10章13節)やガブリエル(同9章21節)など、名前をもつ大天使が登場しますし、黙示録は御使いだらけ。ベツレヘムの野で羊飼いに現れた天の軍勢(ルカ2章9―14節)、牢獄のペテロを起こして救出した主の使い(使徒12章7―10節)など、枚挙に暇無しです。
 ふだん私たちは天使の存在を意識しませんし、守護天使がいるのかいないのかなどあまり真剣には議論しませんが、中世カトリック教会では天使の存在とその階級制度が重要な関心事で、そうした絵画や文献も多く残っています。旅行者に人気の世界遺産モン・サン・ミシェルも、大天使ミカエルゆかりの修道院ですね。
 さて問題は、神の被造物である天使の中に、自由意志を乱用して堕落し、神に敵対するようになった悪しき天使が現れたことです。これを悪魔、あるいは旧新約聖書共通のサタンという呼称で表します。決してそれは悪を擬人化した抽象概念ではなく、実在の人格。概念と思わせ危険を感じさせないことこそ、悪魔の誘惑であり手口です。

ウィリアム・ブレイク作「腫物でヨブを撃つサタン」

C・S・ルイス『悪魔の手紙』

 サタンを学ぶイチ押し本は、英国の児童文学者で、優れたキリスト教弁証家でもあるC・S・ルイスの処女作『悪魔の手紙』(新教出版社)。老練な悪魔スクルーテイプが、甥で新米悪魔のワームウッドに、どうしたら彼(キリスト信者)を敵(神)から引き離せるか、知恵を授ける全31信の手紙です。裏から真理を得る諷刺ゆえ、じっくり読まないとわかりにくい面もありますが、ルイスの人間&悪魔理解には脱帽させられます。
 「われらの父」(単数)との表現もありますから、ルイスの言う悪魔(複数)は厳密には悪霊や悪しき諸力のことで、「われらの父」こそが、聖書でいう悪魔(サタン、単数)でしょう。ともかくも、いくつかうならされた部分を紹介します。括弧内は原書にない補足です。
 「彼(神)は人間が自由であることを望むので、人間の単なる本能的感情や習性だけでは、彼らの目の前に据えてやったどのゴールにも彼らを連れて行こうとはしない。彼らが『自分でする』ように放っておく。ここにわれわれ(悪魔)のつけこむ好機がある。がしかし、ここにまたわれわれの危険もあることを忘れてはいけない。彼らがひとたび、入門期の無味乾燥をうまく通りぬけると、感情に動かされることが一層少なくなり、それだけ誘惑もむずかしくなる」(34、35頁 ※ページ数は、いずれも新教出版社1978年版のもの)。

 「人間がいつもわれわれ(悪魔)を、彼ら(信者)の心に何かを注入するものとしているのは滑稽である。本当は、彼らの心から物事を閉め出しておいた時に、われわれは一番よい仕事ができるのに」(43頁)。

 「わたし(悪魔)は、彼の注意を敵そのもの(神)からそらせて、敵についての彼自身の心の状態に向ければ彼の祈りを弱めることができる」(53頁)。

 「敵(神)が望むのは、彼に結合しながらもなお独自の存在を保つもので満たされた世界である」(64頁)。

センセーショナルトピック?

 悪魔が親玉なら悪霊はその手下。悪魔の犠牲者である悪霊憑きと聞けば、反射的に悪霊追放、霊の戦いへと話題は発展し、聖書的か否か、賛成派反対派に分かれた論争になりがちなのが、悪魔や悪霊というトピックです。
 福音書にあるイエス様の悪霊追放のわざは、御国の王がこの世に来られた証拠として誰も否定はしませんし、使徒たちにもその権威が授けられていたのも確かですが、21世紀の現代にも同じことが起こるのか、これは癒やしや奇跡の現実性と共通のテーマですし、宣教の現場では避けて通れぬ課題でもあります。
 もうひとつ、黙示録には古い蛇や竜になぞらえたサタンと神との戦いが多く描かれ、16章には世界最終戦争が「ハルマゲドンの戦い」として登場します。しかしそれらは悪魔や悪霊に関わるトピックではあっても聖書の主要課題ではありません。大衆受けを狙うマスコミや煽動的政治家は喜ぶかもしれませんが、私たちの生活においては、そうしたセンセーショナルな話題よりも、わずかな心の隙間に入り込んで来る悪魔の誘惑のほうがはるかに危険。
 一例を挙げるなら、「ベターをもってベストを阻む」のが悪魔の常套手段です。正反対のことに誘導されたら誰でも間違いとわかるでしょうが、ほどほど正しいことを差し出されると、そんなものかな、とつかみ取ってしまい、本当はその先に用意されているはずのベストチョイスを逃してしまう。
 「『万事に節度』について彼(信者)に話してやりなさい。いったん彼を、『宗教はある点までは大いによろしい』と考える所までひっぱって行くことができれば、彼の魂について君(悪魔)は全く喜んでよろしい。手加減した信心は不信心と同じくらい結構なもの」(70頁)
 この巧妙さ、いかがでしょうか。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「魔女の安息日」

無視せず見つめ過ぎず

 蛇ににらまれたかえるなどと申しますが、危険な相手を凝視し過ぎると、かえってそのペースや誘導に引っ張り込まれる可能性があります。目をつぶっていたら見えないのでそれもダメなのですが、適度に意識しつつも、過度に関心をもつことは禁物。
 しっかり見つめるべきは主イエス様でしょう。トラックの走者は、別のものや隣の走者に気を取られていたらまっすぐ走れません。天上のゴールで手を広げ、待っていてくださる主イエスを意識し、そこに向かって今この時、自分のトラックを走ります。
 「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12章2節)
 復活の主イエスが悪魔に勝利し、今は悪魔の悪あがき期間であることを忘れないようにしましょう。

サタンを罪の言い訳にしない

 「サタンが私に盗めと言ったからそれに従っただけです」との言い逃れや、「原罪によって自由意志が機能不全に陥っているので、サタンに振り回されて盗みました」と神学的な(?)言い訳をしても、窃盗罪は免れ得ません。
 サタンは、人を神から引き離すよう働きかけ、罪を犯させようと誘惑はするも、罪の強制まではできません。そもそも、人が最初に罪を犯した場面で、あのエバは「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました」(創世記3章13節)と、蛇に化けたサタンのせいにしたではありませんか。
 この責任転嫁こそ罪であり、神への正しい応答(response)をする能力(ability)を誤用した結果、罪を犯して神への責任(responsibility)を果たせなくなった悲劇です。人はサタンの誘惑に弱い者であることをすなおに認め、自分は大丈夫と思わず、聖霊の助けに依り頼み、何度でも悔い改めて再出発しましょう。
 神は「わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ」(エゼキエル33章11節)のですから。主イエスは宣言しました。
 「わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16章33節)

「百万人の福音」2019年10月号より】

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