《特集》大嘗祭の何がいけないの? 一問一答

  • 2019/11/7
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大嘗祭の何がいけないの?  一問一答

 11月14日、大嘗祭が行われる。これは、天皇が「神」となる神道儀式にもかかわらず、公費が使われる。その問題点と、クリスチャンが心すべきことについて、東京基督教大学・学長の山口陽一氏にお聞きした。日本のクリスチャンが、再び躓かないためにー。

山口陽一 牧師

1958年生まれ。4代目のクリスチャン。金沢大学、東京基督神学校、立教大学大学院に学び、牧会と東京基督神学校校長を経て現職、日本同盟基督教団正教師。

時代ごとに変化した天皇の役割

ー長い日本の歴史の中で、天皇は、どのように位置づけられてきたのでしょう。

 古代においては親政時代、つまり天武天皇など実力のある天皇が自分の力で国を治めた時期がありました。中世になると貴族政治の中で、天皇は公家に利用される存在になっていきます。
 鎌倉時代以降の武士の世になると、武力で平定後、政権を安定させるために、頂点に立った武士が朝廷からの権威を利用します。徳川幕府も、朝廷を囲い込みながら、諸大名に対して抑えを効かせるために、その権威を利用しました。
ここまでの歴史では、庶民にとって天皇は遠い存在でした。明治政府が、それまで御簾の中にいた天皇を国民の前に引っ張り出し、皇軍と祭祀などによる天皇制を造り上げました。「万世一系」もこのときの造語です。

ー国家統合のためのシステムとしての天皇制ですね。

 憲法学者の横田耕一氏が言うように、まさに「天皇教」だと思います。明治初頭、視察のため送られた遣欧使節団は、欧米社会の根幹にキリスト教という精神的支柱があることを知りました。それをどう真似るかと考えた時に、天皇こそが機軸となりうるという結論になったのです。そして、天皇教ともいえる「国教」を作り、それを明確に打ち出す教育勅語や軍人勅諭で浸透させていきました。

ー今の日本人にとって「天皇教」は過去のものなのでしょうか。

 戦前は軍の統帥として国民には近づき難い天皇でしたが、今は被災地の避難所で膝をついて被災者と語らう天皇になりました。けれども、時の政権が天皇を政治利用して機能させるという点では同じです。「天皇は、この国にとって不可欠だ」と思わせるための誘導がなされ続けています。
 天皇がよく機能したのが、第二次大戦終結時の混乱期です。連合軍との本土決戦もありえないことではなかった状況で、事態を終息させるのに、天皇はものすごく役立った。軍国主義の極みから、平和主義の祈りの人へと、劇的に変われるというのは、注目すべきことだと思います。

ーなぜ、そこまで激変できるのでしょう。

神道には教理がなく、儀式を行えばいいからです。そのため、時の政権の思想が変わっても、どうにでもなれるのです。それが天皇制の強いところともいえます。

占領軍のマッカーサー総司令官と昭和天皇裕仁

「救い主」としての天皇!?

ー何にでもなれる天皇は、今後も変えられていく可能性があるということでしょうか。

 まったくありうることです。現在の安倍政権と皇族には、憲法や皇室の在り方などについて意見の違いがあるようです。しかし、政権の横暴さを、天皇家の品位が埋めている側面がある。それは、申し合わせているわけではないはずですが、結果的にそうなっている。それこそが、天皇制の巧妙なところではないでしょうか。

ー特殊な存在である天皇は、一人の人間として当たり前の基本的人権がないという点でも特殊です。その意味でも、こうした在り方で良いのだろうかと感じることもあります。

 信教の自由、表現の自由、職業選択の自由などあらゆる自由がありません。それを日本人は、どう見ているのか。日本の祭司であり、大嘗祭により神道の価値観における「現人神」となる天皇が、日本人のために特別な祈りを背負ってくださっているという意識が、濃淡の差はあっても国民の意識の根底にあるのです。それは「日本人の救い主」と考えられているといえるかもしれません。
 もちろん聖書の示す「救い」とは違いますが、天皇がいることで、日本は恒常的に救われている、という考えが、この社会にはあります。そこから、「日本の美しさ」という感情や民族的な自己満足感が生まれているのです。つまり、天皇を中心に置いた日本という枠に守られ、完結しているのです。
 先の大戦の戦争責任の問題でも、天皇は自らの責任に触れず、国民は一億総ざんげという形で済ませてしまった。多くの日本人は、絶対的な神を知りませんから、問題が起きればお互いの間で処理してしまいます。神の前で自らを省みず、罪と向き合わずに済ませてしまう。それが、日本において伝道が進まない、根本的な理由だと思います。
 神ならぬもの(天皇)を疑似的な神にして、真の神を求めない。天皇は、恐ろしい、おどろおどろしいものではなく、非常にスマートで、上品で、光の天使のような姿でやってくるのです。
 天皇制は、元々中国の皇帝のスタイルを取り入れたのですが、中国では、天によって皇帝の善し悪しが判断され、悪政を行えば革命が起き、別の人間が立てられます。しかし、日本の天皇は、血族でつながることを至上命題とするので、外から自らを照らされる余地がないのです。

ーすたれたとはいえ、日本人が祖先を崇拝する意識ともつながっているのでしょうか。

 日本が大きな家で、天皇は、その父という考え方があります。それぞれの家に先祖があって供養することで、天皇家の歴史や伝統を共有しているのです。「敬神崇祖」ということばがありますが、天皇を敬うことと、祖先を崇めることは、一体となっています。特に戦時下はそうでした。

今上天皇の即位を祝う一般参賀

「大嘗祭」は天皇が「神」になる儀式

ー昨秋、秋篠宮が、大嘗祭の費用が公費で行われるのは止めるべきとの発言をして、警鐘を鳴らしました。

 「大嘗祭は宗教行事である」という意識が問われています。政府は、国民皆で祝うと言いますが、これは「宗教ではなく国民的儀礼だ」ということです。私費の内廷費ではなく公費の宮廷費で費用を賄うことを決めました。秋篠宮は、そのことを言ったわけです。神道の祭司である天皇を「神」とする神道儀式の大嘗祭が宗教行事ではない、と言ってしまったら自己否定になってしまうのです。
 今の憲法下では政教分離を明確に規定していて、それをめぐりさまざまな裁判が繰り返し行われ、神道が政治と結びつかないことを、戦後の日本はずっと守ってきたのです。しかし、ここにきて、それを押しつぶす力が頭をもたげ始めています。

ーでは、クリスチャンは、どう考え、行動していけばいいのでしょう。

 「天皇がいることで日本の価値を高めている、天皇を戴いている日本は特別な存在なんだ」という思いがこの社会にはあります。それは、キリスト教に行かせない力となって働いているのです。日本人でも海外で暮らすと、それが取り払われて、信仰に進みやすくなることはよく知られています。
 悪しき霊の支配ということを安易に言いたくはありませんが、この状況は、そういうふうに見るべき点もあると思います。
 日本のキリスト者の中にも、「天皇は神から日本人に与えられた『贖いの賜物』」と主張する人々がいます。これはかつて、戦中に神社参拝を推奨した極端な日本的キリスト教が言っていたことです。今、またそういう発言が平気でできるような時代になってきているのです。

ーそんな力が働く日本の歴史の中でも、これまで3度、キリスト教の隆盛期がありました。

 それは、神国日本が揺すぶられた時代でした。ザビエルが来た第1期の戦国期は、天皇の権威が弱まっていました。これに対する応答がバテレン追放令です。次は明治維新。これに教育勅語という応答。3回めは、戦後の占領期でした。
 いずれも、日本が福音に向かう機会でした。これに対し、民族的応答がなされたわけです。戦後70年以上を経て、意図的に国費で大嘗祭が行われるのも、その表れでしょう。現行憲法を軽んじ、戦後民主主義へ挑戦する政権の登場も、そうした流れの中にあります。

ー政府は、戦後、政教分離に気を遣ってきましたが、それが終焉を迎えるのでしょうか。

 今迎えつつあります。戦後、抑えられていたものが、次々と復活しています。集団的自衛権容認の法案を通し、自衛隊が海外で戦闘できるようになりました。今後、自衛隊の海外派兵で戦死者が出ると、ずっと封印してきた「英霊をたたえる」ことが行われるようになるでしょう。そのための装置として、靖国神社が使われることを懸念します。

ークリスチャンは、こうした日本人の心をよく理解したうえで、この社会に向かわないと、真の意味で宣教も進みませんね。

 「イエス・キリストにしか救いがない」ということは、突き詰めれば日本の祭司としての「天皇は不必要」ということです。しかしクリスチャン自身が、なかなかそう言いきれない。
 「日本には天皇は必要」「歴史の終わりまでは天皇がいた方がよい」。こうした考えには、主を恐れつつバアルに従ったイスラエルの民ように、第1の戒めを犯す危険があります。戦時中の過ちを心に刻むべきです。エジプトの奴隷から解放された民が、エジプトを恋しがるようなことではいけません。
 神に帰すべき栄光を神ならぬものに分け与えてはいけません。アメリカのクリスチャンも、信仰の一部がアメリカという国家に向いていますので、日本だけの現象ではないのですが、天皇の宗教性は特に強いですね。

宮城遥拝を行う朝鮮半島の人々

天皇と「上に立つ権威」

ークリスチャンとして、天皇をどう位置付けたらいいのでしょう。

 日本で神学をしていく時の最大の課題が「天皇制」だと、ずっと考えてきました。それは政治問題ではなく、礼拝と教会形成、神の国の宣教に関わる問題なのです。しかし、皆さんがそう思っているわけではなく、今日のような話をしてもピンとこない方も多いでしょう。「クリスチャンとして、天皇をどう位置付けるか」は難しい問題です。
 やはり、かなり特殊な形ではあっても神が配置された「上に立つ権威」の一つと見るべきでしょう。国民統合の象徴という特別な役割をもった公務員です。しかし、かつては黙示録13章の獣のようになったこともあり、非常に危険で、今でもそういう要素を内包している存在であることを忘れてはいけません。
 けれど、天皇そのものが偶像だと言いきれるかというのが私の悩むところです。天皇は人間です。悔い改めて救われるべき罪人です。天皇が救われて神道の祭祀を放棄する。そのうえで天皇であり続けられるのなら、神格化は退けられ、憲法に従って国民に寄り添い、国民統合の象徴であり続けることがありうるのかなと思います。ただ、クリスチャンの中には天皇は「上に立つ権威」ではない。偶像であるという方がいるし、その気持ちもわかります。その辺が悩みどころです。
 聖書の「上に立つ権威」とは、神が「人に益を与えるための神の僕」(ローマ人への手紙13章4節)として立てておられるのです。ですから神に従うゆえに、良心によって従うのです。上に立つ権威が神となるような場合は、不服従の「抵抗」が、神への奉仕となります。

ーもし、神道の大祭司である天皇が洗礼を受けたとしたら、驚天動地のことですね。

 その実現可能性はないと思えてしまいます。しかし、新約聖書が書かれた時代に、ローマ皇帝がキリスト教徒になることを、誰が予想できたでしょうか。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられ」(Ⅰテモテへの手紙2章4節)、「王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」(同2章1節)と教えています。我々は、可能性があるから祈るのではなくて、神のみこころがなることを祈るのです。

ーでは、今の我々ができることは、天皇の救いを祈るということですね。

 そうですね。ただ、そう言ったときに、天皇制の問題を本当の意味で考えずに終えてしまう危険性もあるのです。そうならないためにも、日本のクリスチャンにとって天皇制の何が問題かを理解したうえで、天皇と皇族、政治家と官僚たちの救いを祈る。日本人を縛る天皇制というシステムから、すべての人が解放されるように祈る。国や政府が人に益を与える僕として良い働きができるように祈るということでしょうか。

ー天皇を頂点とした枠組みに自分を置くことで、ある種の救いを得ている日本人に、どう語れば福音は沁みていくのでしょうか。

 そこには救いはないと伝えること、そこには救いがないことを身をもって証しすることでしょうか。
 天地万物の創造者が人となって地上に来られ、人の罪を負って十字架にかかり、復活された。この福音を喜ばしく語る。福音は、そもそも日本人を真の自由に解放する真理です。天皇によって何となく丸めてしまうことを、福音は許さないはずです。

教会は、すでに劣勢である

ー大嘗祭が国事行為として行われると、国家と神社の結びつきが進みそうです。

 クリスチャンが現状を「問題がない」と思っているとしたら、全然違うと思います。もう闘いは始まっているし、すでに負け始めています。今、自覚しなければいけません。
 政教分離のことでいえば、日の丸・君が代の強制が公立学校で行われ、クリスチャンの教員も闘っています。しかし、日本の教会は歴史的にみても、こうした事態としっかり対峙してこなかった。
 今後、「神社参拝は宗教ではない。国民的儀礼だ」という議論が出てきたときに目が覚めても遅いでしょう。教会は、かつて押し切られましたし、今も、その可能性があります。
 大嘗祭に税金が使われることに、おかしいと言うべきです。これが当たり前となり、自治体が神社に玉ぐし料を公費で出すことも当たり前。神社参拝は宗教ではありません、というようなことになるとクリスチャンは大迷惑です。でもそれ以上に日本が危うくなるでしょう。

ークリスチャンはいま一度、霊的な足場を固める必要がありますね。

 戦後の福音主義には、戦時中に神社参拝を受け入れてしまった日本主義のキリスト教を悔い改め、聖書主義の教会に生まれ代わるという目標がありました。
 戦時下の日本の教会では、「神のことばに聴く」と言いながら、聖書を読んでも、「日本のことば」に置き替えて理解したのです。つまり、「皇国の道に従って信仰に徹する」ということでした。神学の学びや講解説教を行い、生真面目に生きていたのに、天皇制の枠の中に組み込まれて、ほとんどの信者が疑問にも思わなかった。日本人クリスチャンにはそうした弱点があることを自覚し、日本に派遣されたキリストの教会として、霊的な足場を固める時であると思います。

ー本日は、ありがとうございました。

「百万人の福音」2019年3月号より】

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