《試し読み》コロナウイルスとキリスト

信仰生活

《試し読み》コロナウイルスとキリスト

コロナウイルスとキリスト
ジョン・パイパー著、渡部謙一訳、880円税込、B6判

第1章 《岩》のもとに来なさい

私がこの本を書こうと思ったのには理由がある。それは、この病について様々な確率を比べても、いのちに関わる重大局面においては、はなはだ根拠の薄弱な希望しか持てないと思ったからだ。コロナウイルスにかかる確率は、どの州が三パーセントで、どの州が一〇パーセントなのか。青少年と高齢者ではどちらが高いのか。既往症のある人とない人ではどう違うのか。地方と都市部ではどちらが高いのか。人々との接触を断っている人と、自宅に友人たちを招いている人の場合とでは、どちらが高いのか。このような確率の高さや低さをいくら比べ合わせても、確実に大丈夫だという希望はほとんど持てない。罹患率の指標は、頼りにすべき堅固な土台ではない。
それよりももっと良い道がある。もっと堅固な土台がある。おそらくこれからはそうなるでしょう、としか言えない確率という砂のような土台ではなく、確実にこうなる、と言える《岩》のような土台があるのだ。

がんがやって来たとき

二〇〇五年の十二月二十一日、私は前立腺がんの告知を受けた。思い起こすと、それから数週間のあいだずっと、聞かされたのは生存率の話ばかりだった。経過観察した場合はどうか。薬物療法を取った場合はどうか。ホメオパシー治療を受けた場合はどうか。大切除手術を受けた場合はどうなるのか。妻のノエルと私は、そうした生存率の数字を深刻に受けとめた。しかし夜になれば、決まってほほえみを交わして、〈私たちの希望は生存率の中にはない。私たちの希望は神にあるのだ〉と思っていた。
それは、決して私たちが、「神は一〇〇パーセント確実に私を癒やしてくださるだろう。だが医者は確率を示すことしかできないのだ」と思っていたということではない。ここで話そうとしている《岩》というのは、そのような思いにもまさって堅固な確信である。そう、がんの癒やしよりも確かなことだ。
がんを告知する電話を医者から受ける前からさえ、私はすでにすばらしい形で、自分の足の下にある《岩》について神から教えられていた。いつものように年に一度の検診を受けた後で、泌尿器科医が私を見つめて、こう言った。「生体検査をしたいのですが」
え、冗談でなく? と私は考えた。「いつですか」
「今すぐです。時間があればですが」
「むろん時間は作ります」
医者が生検用の機器を取りに行くのを見送り、典型的な、やぼったい青いガウンに着替えている間、私には、何が起こっているかじっくり思案する時間があった。〈ということは、私はがんの疑いがあると思われているのだな〉。この世界における自分の未来が目の前で変わり始めたとき、神は、最近聖書で読んだあることを思い出させてくださった。

神はお語りになった

さて、ここではっきり言っておきたい。私は、神の声が聞こえるという人間ではない。少なくとも一度として神の御声を耳で聞いたことはない。神がお語りになるという私の確信は、聖書が神のおことばだという事実に根ざしている(その点については、次の章で詳しく述べることにしよう)。みことばの中で神は、これ以上ないほどはっきりと、ものを語ったし、今もなお語っておられる。聖書は、正しく理解されるなら、神の御声にほかならない。
その泌尿器科医の診察室で、生体検査が始まるのを待っていた私に向かって、神は、次のようなおことばを語ってくださった。その生検の結果、私ががんにかかっていることが確定する、はるか以前にである。「ジョン・パイパー、これは、わたしが怒って下す罰ではない。生きるにしても死ぬにしても、あなたは、わたしとともにいるようになるであろう」。そのことばは、私がかみくだいて分かりやすくしたものだ。実際には、この聖書のことばが、神がお語りになったおことばである。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです(Ⅰテサ五・九―一〇)。

目を覚ましていても眠っていても―すなわち、生きていようと死んでいようと―私は神とともに生きているであろう。どのようにして、そのようなことがあり得るのか。私は罪人だ。生まれてからこのかた一日も―ただの一日たりとも―神がお求めになる愛と聖さの標準を満たすような形で過ごしたことはない。ならば、どのようにしてそのようなことがあり得るのだろうか。どのようにして神は、こう仰せになることができるのだろうか。「ジョン・パイパーよ。あなたは、わたしとともにいるようになるであろう。―生きるにしても死ぬにしてもだ」
そのような問いかけを私から受けもしないうちに、神はこう答えてくださった。それは、イエスのおかげであると。ただイエスだけのおかげなのだと。イエスが死なれたおかげで、私は決して神の御怒りから出る罰を受けない。私が、非の打ち所のない人格をしているためではない。私のもろもろの罪、私の咎、そして私の罰は、私の《救い主》イエス・キリストが背負ってくださった。キリストは、「私たちのために死んでくださった」。それこそ、神のおことばが語っている真理である。それゆえ、私はもう何の咎もない。決して罰を受けることはない。神のあわれみに富むいつくしみの中に、確実に保たれている。「生きるにしても死ぬにしても」と、神は仰せになった。「あなたは、わたしとともにいるようになるであろう」
それは、がんの―あるいはコロナウイルスの―生存率を比べ合わせることとは似ても似つかない。その約束こそ、私の足の下にある堅い《岩》である。もろもろと崩れ去るようなものではない。砂ではない。私は、あなたも同じ《岩》を土台とするようになってほしいと思っている。だからこそ、今この本を書いているのだ。

この《岩》が堅固なのは、将来だけか

また、話はそれでは終わらない。ある人は、私の文章を読んで、こう言うかもしれない。「あなたのように宗教的な人々は、将来にしか希望を見いだせないのですよ。あなたがたは、墓を越えたところで安全なら、それで願いがかなうのです。けれども、あなたがたが話している『神の声』は、現時点とはほぼ全く関わりがありません。神は、天地創造のときに万物を開始させたらしいですし、おそらく最後のときには、幸福がいつまでもいつまでも続くという結末をもたらすのでしょう。けれども、その間についてはどうなのです? 神は今―現時点で、このコロナウイルスの感染者がすさまじく急増している間―どこにいるのですか」
いいだろう。確かに私は、自分が死んだ後で神の御前で喜びに満たされ、その喜びを何十億年以上も味わい続け、決して終わりを迎えることがないという未来をありがたく思っている点で、まず人後に落ちはしないだろうと思う。その逆の、決して終わることのない苦しみを味わう運命を思えば、なおのことである。それは、当然のことではあろう。しかし、私が土台としている《岩》(そして、ぜひあなたにも土台としてほしいこの基盤)は、まさに今、私の足の下にあるのだ。この今ただ中にである!
コロナウイルスの大流行は、今、私が生きている世界の現実である。あらゆる人々が生きているこの世界の現実である。また、もしもコロナがなかったとしたら、いつ再発するか分からないがんが、私の現実であろう。さもなければ、二〇一四年、何が原因ということもなしに私の肺にできた塞栓がそうであろう。いつ剥がれるか分からないその塞栓が、もしも今、剥がれて脳の血管をふさげば、私は全くものを考えられなくなり、二度と文章など書けなくなるはずだ。さもなければ、いかなる瞬間においても私を―そしてあなたを―打ち倒すことのあり得る、その他の何百もの思いがけない災難がそうであろう。
私が話をしている《岩》は、今まさに、私の足の下にある。私は、言おうと思えばこう言えるであろう。この《岩》が私の土台だと言えるのは、ひとえに、死線を越えたところにある希望が、現在の希望となっているからなのだ、と。希望が歩みを進めて行く目当ては未来にある。希望が歩みを進めて行く経験は現在にある。そして、その現在の経験は力強い。
希望は力である。現在に働く力である。希望があるおかげで人々は自殺せずにいることができる。―今を生きられる。希望があるおかげで人々は寝床から起き上がり、仕事に出かけることができる。―今、働くことができる。希望があるおかげで、毎日の生活に意味が生まれる。たとえ、ロックダウン(都市封鎖)され、隔離され、外出が禁止された家庭生活にさえも―今も、意味を見出せる。希望があるおかげで人々は、恐れと貪欲から出た利己主義から自由になれる。―今、自由になる。希望があるおかげで私たちは、人々を愛し、危険を冒し、犠牲を払うことができるようになる。―今、そのような生き方ができるようになるのだ。
だから、むやみに将来を過小評価しないよう注意しよう。人は、麗しく確実な将来を確信していればこそ、今現在、人生をさわやかなものとする働きを立派に行っている、ということも十分に考えられるのだから。……(本文より一部抜粋)

コロナウイルスとキリスト
ジョン・パイパー著、渡部謙一訳、880円税込、B6判