《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔最終話〕

  • 2019/12/3
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賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

最終話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

エピローグー「約束の地」へ

 「奴隷貿易廃止運動」は少しずつイギリス全土に広がってゆき、協力者も数を増してきた。そんな時、突然、ニュートンはこの運動の第一線から身を引かなくてはならなくなった。妻メアリーの容体が急変したのである。末期状態の彼女は、絶え間ない痛みのためにしばしば発作を起こし、呼吸困難に陥った。医者はすでに絶望を宣告していた。

 同じ頃、ニュートンを長らく援助してくれた、あのジョン・ソーントンが死去したという知らせが届いた。ニュートンは、いつ妻が亡くなるかわからないのでベッドのそばを離れることができずにいた。すると、メアリーは苦しい息の中から、彼にこうささやくのだった。
 「わたしのことよりも…ソーントンさんの葬儀に出てくださいな。だって、あの方は…わたしたちの…恩人じゃありませんか」

 ソーントンが亡くなって1か月後の1790年12月15日。メアリーも天国に召された。ニュートンは、彼女が息を引き取るまで、手にろうそくを持ち、その旅立ちを見守っていた。葬儀は12月26日にセント・メアリー・ウルノス教会で、ニュートン自らが行った。彼は、最愛の人に最後の別れのことばを贈った。

 「いちじくの木は花咲かず、
  ぶどうの木は実らず、
  オリブの木の産はむなしくなり、
  田畑は食物を生ぜず、
  おりには羊が絶え、
  牛舎には牛がいなくなる」
(ハバクク書3章17節/口語訳)

 メアリーが亡くなった翌年、ウィリアム・クーパーも亡くなった。ニュートンは、かつての友であり、偉大な詩人に成長した彼をしのび、同じ教会で葬儀を行った。そして、ニュートンはこれを最後に牧会から身を引こうと考えた。高齢になってきたうえに、過去において罪深い職業に手を染めていたことが白日のもとにさらされた今、いつまでも聖職者の地位にいることが、教会員やこれからの聖職者のつまずきとなってはいけないと考えたからである。
 ニュートンは、教会で最も信頼する長老の一人にこの決意を告げた。
 「わたしはこの先長く、この教会に留まる資格のない者です。前歴が明るみに出てしまいましたから、聖職者の名を汚すことになるでしょう」
 すると、長老は両手を振ってそれを打ち消し、しっかりと彼の手を握って言うのだった。
 「ニュートン牧師、とんでもないことです。あなたの、生涯かけての貴い証しはわたしたちの希望であり、今なお生ける神様がわたしたちを愛してくださっていることを教えてくれます。みなさんそう思っていらっしゃいますよ。いつまでもこの教会に留まって、わたしたちを導いてください」
 この温かいことばに、ニュートンは胸が熱くなる思いだった。

 一方、ジョン・ソーントンの息子であるヘンリー・ソーントンは、クラパムコモンにある邸宅の一部をクラパム派の会合のために開放したので、ここにおいて社会改革のためのさまざまな計画が討議された。今、皆が一番力を入れているのは、イギリス国内で迫害されたり、身の置き所をなくした黒人たちを救済する計画であった。

 少し時は遡るが、1786年にジョン・ソーントンの友人でクラパム派のメンバーの一人でもあったジョナス・ハンウェイが「黒人貧民救済委員会」を組織し、苦しい生活にあえぐ黒人たちにパンやスープなどの食事を与え、現金を支給する活動を行っていた。しかし、そのうちに救済を受ける黒人の数は増える一方で、いつまでもこうしたやり方を続けることは無理であった。
 そんな時、博物学者のヘンリー・スミスマンが、アフリカのシエラレオネに「約束の地」と称する救済センターを作って黒人を送り込んではどうかと提案した。クラパム派のメンバーはこの提案を歓迎し、グランヴィル・シャープが委員会の会長となって具体的な規約が作られた。

 1789年。41人のロンドン在住の黒人たちがアフリカに向けて出航し、5月10日に「約束の地」であるシエラレオネのセント・ジョン湾に到着した。しかし、現地の首長から買った土地は肥沃ではなく、ちょうど雨期でもあったので気候に順応できずに命を落とす者も出てきた。しかも現地では、相変わらず奴隷貿易が重要な産業であったために、イギリス、フランスの奴隷貿易商人たちからあくどい妨害を受け、「約束の地」は焼き打ちに遭うような被害を被る羽目になった。

 そこで1790年、ウィルバーフォースが中心となって議会の決議を得たうえで「シエラレオネ会社」を創設し、これを法人化したのだった。会長はグランヴィル・シャープ、議長はヘンリー・ソーントン、理事にウィルバーフォースとチャールズ・グラントが納まった。
 こうして、ついに1792年に1100人ほどの黒人が乗った15隻の船がシエラレオネに到着。彼らのために新しい町が造られ、学校や病院も建てられた。彼らは厳しい気候や災害、黄熱病や赤痢などと闘い、これを乗り越えた。やがて後にはこの「約束の地」は、正式にイギリスの植民地として認められたのであった。

ニュートン、天国への旅立ち

 ニュートンは、妻のメアリーが亡くなってからはコールマン・ストリート・ビルディングに引っ越し、そこで生活していた。今では耳も目もかなり悪くなり、文字も苦労しながらでなければ書けなくなっていた。養女のベッツーはすでに結婚していたが、毎日、養父のもとを訪ねて身の回りの世話を一切行っていた。手紙を読んだり、代筆したり、ひっきりなしにやってくる来客をもてなすのも彼女の仕事だった。
 ニュートンは、このように年老いて体力が衰えてもその説得力は力強く、聞く者の心を慰めて、神の恩寵に浴させる力をもっていた。彼はもう教会まで足を運んで説教をする体力はなくしていたが、自宅を開放し、訪れる人に聖書の講義をしたり、自分の体験談を語ったりしていた。そんな彼の話を聞くために、人々は各地からやってくるのだった。

 「ニュートン先生、お話の中にいつでも『驚くべき恩寵(アメイジング・グレイス)』ということばが繰り返し出てきますが、それはなぜなんですか?」
 彼を慕っていつも話を聞きにくる学生の一人がこう尋ねると、ニュートンは語った。
 「わたしの人生はイエス・キリストの、まさに驚くべき恩寵によって今まで守られてきたからですよ。わたしはあなたくらいの若者の頃、ひねくれ者で人を困らせたり、神を冒涜する歌を大声で歌って面白がったりしていたものです。その後、恐ろしい悪事に手を染め、何度も破滅の淵をさまよっていたのを、イエス・キリストは私を尋ね求めて救い出してくださり、より良い人生を与えてくださった。
 いいえ、それだけではありません。こうして、人生も終わりに近づいた時に、昔の過ちをわずかでも償う機会を与えてくださり、重荷をすっかり捨てて天国に行けるようにしてくださったのです。だから、『驚くべき恩寵(アメイジング・グレイス)』ということばは、わたしの人生そのものを意味するのです」

 1807年2月24日。ウィルバーフォースが提案し、すでに上院を通過していた「奴隷貿易廃止法案」が283対16で下院を通過した。そして、同じ年の3月25日に国王の承認を得て法律となった。ウィルバーフォースは、この勝利を祝うためにクラパム派の集会所に駆けつけた。
 「何よりもまず、ニュートンさんに知らせなくては。どんなにこの日を待ちこがれていたことでしょう」
 ヘンリー・ソーントンが言った。
 ニュートンはこの年の初めから、めっきり体が衰弱して寝たきりになっていた。この日も、いつものようにベッツィーは養父の身の回りの世話をしてから、その手を握り、耳もとでこうささやいた。
 「もうすぐですよ、お父さん。そのうちきっと良い知らせを聞くことができますよ。祈りながら待ちましょう」
 その時、ウィルバーフォースとヘンリー・ソーントンがやって来た。
 「ニュートンさん、喜んでください」
 ウィルバーフォースが、息を弾ませて言った。
 「『奴隷貿易廃止法案』が議会を通って、国王が承認されましたよ」
 ニュートンは、もう口をきくことができなかったが、かすかに微笑し、2人の手を強く握りしめるのだった。

 それから9か月後の1807年12月21日、ニュートンは82歳の生涯を閉じた。その数週間前に訪ねてきたある友人に、彼は次のようなことばを残したといわれる。
 「わたしの記憶はほとんど消え去ってしまいましたが、一つだけ覚えていることがあります。それは、わたしはひどい罪人であるということ。それから、こんなわたしを愛してくださったイエス・キリストこそ偉大な救い主だということです」

 1833年7月26日。イギリスは正式に奴隷貿易を廃止した。その3日後、ウィリアム・ウィルバーフォースは73歳の生涯を閉じた。

歌い継がれる「アメイジング・グレイス」

 ニュートンが『オウルニイ賛美歌集』に収めるために作った「アメイジング・グレイス」はその後、海を越え、アメリカに渡って初めて大衆のものとなった。奴隷として働かされていた多くの黒人たちは、この歌の歌詞に自分たちの人生を託し、生きる力を与えられた。この歌は、古くから黒人たちに歌い継がれてきたゴスペルソング(黒人霊歌)と奇跡的に出合うことによって、アメリカから世界へと広まっていったのであった。
 最初はさまざまなメロディで歌われていたようだったが、1835年にアメリカで出版された『サザン・ハーモニー』という賛美歌集が、現在歌われているメロディを初めて紹介したと言われている。編集したのはサウスカロライナ出身の作曲家、ウィリアム・ウォーカーで、10年間に60万部も売りつくされたという。
 一九四七年に黒人歌手のマヘリア・ジャクソンがレコードに吹き込むと、この歌は教会やキリスト教信仰の枠を越えて多くの人に知られるようになった。あるコンサートで、マヘリア・ジャクソンは、最初はこの歌が作られた時のままで6番まで歌い、最後にアンコールを求められた時には、4番だけを少し違った歌詞で歌ったと伝えられている。

 「かの地に着いて1万年たったときも、
  太陽のごとく明るく輝きながら、
  日々、神の讃歌を歌うだろう、
  初めて歌ったときと同じように。」
『増補版「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』(ジョン・ニュートン著、中澤幸夫編訳/彩流社)より

 さらに1970年代に入り、フォークシンガーのジュディ・コリンズがレコーディングしてからは、この歌は反戦歌としても歌われるようになった。これを「許しの歌」と称したある国の首脳もいた。

 こうして、奇しくも神の手に導かれて約束の地アメリカに渡った「アメイジング・グレイス」は、世界中の人の心の歌となったのである。
 かつてニュートンはアフリカで奴隷貿易を行い、黒人たちを商品のように扱い、これを売買していた。その彼が作った賛美歌が、長い年月を経た後に、アメリカに渡って黒人たちに安らぎや慰めを、そして希望や勇気を与えたのである。まさに彼が知らないうちに、その過去に犯した過ちが、神の手によって償われたと言えよう。
(おわり)

*この物語は史実に基づいて、多少のフィクションを加えた伝記小説です。

オールニーのセント・ピーターズ&セント・ポール教会に建てられたジョン・ニュートンの墓

【「百万人の福音」2018年12号より】

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