《インタビュー》神の懐で憩う安息日

  • 2019/2/5
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喜び生む安息日にしませんか

聖書宣教会 教師 鞭木由行師に聞く

安息日を守る、ということには実は深い意味があると聞き、神学校で教鞭を執る鞭木由行師に伺ってみた。そこには信仰の根幹に関わる問題が潜んでいた。(インタビュー:編集部 砂原俊幸)

── 「安息日」は、聖書の中でも大変重要な戒めである「十戒」の第四番めに書かれています。しかし、他の項目に比べて地味な印象があります。

鞭木:そうですね。いまクリスチャンは、毎週の「安息日」をどこまで真剣に覚えているでしょうか。実は、第四戒は、十戒の中でいちばん長く書かれた項目で、その理由も書かれています。これは神様と共に生きるために不可欠な戒めであり、十戒の第一戒~三戒の、神を第一にする戒めの実行は、第四戒にかかっているのです。
第四戒には「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」とあります。
これは「~してはいけない」という禁止命令ではなく、「~しなさい」という積極的な命令なのです。
安息日の話をするといつも、何をしていいのか、悪いのかという質問が出ますが、大切なのは「聖なる日とせよ」ということ。その積極的な命令をどう実現するかを、もっと真剣に考えなくてはいけないと思います。
聖というのは、神に属するということを言っているわけで、神に属さない事柄に、時間を用いないということが、一つの大きな考え方かなと思います。
その最たるものは公の礼拝です。その他、どの程度までのことができるか。教会学校の奉仕でも、何の奉仕でも、主のための奉仕なので、それは特に問題はないと思います。置かれた事情によっても違ってきます。だからと言って、具体的な事柄を一つひとつ良いか悪いかだけで考えていくのは、よくないと思います。

第四戒に含まれた四つの意味

── 聖なるものとするということについて、もう少し詳しく教えてください。

鞭木:この第四戒には、四つの意味が見いだせます。
第一に、神のために時間を聖別することを命じています。一週間の内、丸々一日を神のために使うように教えているのです。安息日を守ることは礼拝を守ることだと考えている人がいます。しかし、それはこの戒めの重大な誤解であると思います。
ウェストミンスター小教理問答書には次のような問答(№58)があります。
「第四戒では、何が求められていますか」
「第四戒は、みことばにおいて神が定めた一定の時間を神のために聖別すること、特に、七日間のうちの一日全部を聖なる安息として、聖別することを求めています」
私たちは、この日を神と過ごすために取り分けて、生ける真の神とのより親密な交わりのために用いるべきなのです。
日曜日に1時間半、礼拝をしても、まだ22時間半残っています。8時間半たっぷり寝ても、なお12時間は残ります。それをどう過ごしているでしょうか。
「それも聖なるものとせよ」と要求されているのです。
2番めに「安息日」の原語は「シャバット」と言います。これに相当する日本語はなかったので、日本人は「安息日」ということばを作り出しました。しかし、「シャバット」は、本来「やめる」とか「終わる」という意味です。平日の仕事をその日にはやめる、ストップするという意味なのです。私は「安息日」ではなく、「中止日」と提案したいくらいです。

── 確かに受ける印象はだいぶ違ってきますね。「休む」意味は聖書にはないのでしょうか。

鞭木:そのような意味もあります。たとえば出エジプト記23章12節には、安息日に休ませるとある。しかし、聖書には六日間働いたので、疲れたから七日めは休みだという低次元の安息日理解はない。安息日の第一の意味は、やめること、ストップすることなのです。
何をストップするのか。6日間ずっと働いてきたその仕事をやめるのです。これこそ、この安息ということばが本来意味していることなのです。

── 安息日に、仕事は絶対にダメでしょうか。

鞭木:今日、私たちを取りまく社会的環境は、なかなか、そうすることを許してくれません。また、職業によっては、そうすることが困難なものがあります。私も3年間、ある病院で働いていました。三交代制で勤務時間はめちゃくちゃだったので、主日を守ることが難しかった。
異教的な社会の中では、できる限り努力をして、それでもなお不可能な、個人の努力ではどうにもならない場合は、仕方ないと思います。しかし、働かざるをえない状況でも、日常の働きを「ストップ」する事が安息日の基本的命令であることは、忘れてはならないことです。

── 具体的には、どんなことをすればよいのでしょうか。

鞭木:それが3番めの意味になりますが、安息日は単に仕事をせずに休むのではなく、「聖とする」働きをするように命じている。残念ながら、後代の人は、これを禁止命令として、「~をしてはならない」と律法的に考えるようになりました。しかし、安息日は、活動の日なのです。天的召しの仕事を遂行するために、地上の仕事を休むのです。安息日を守ることは、恵みの手段。この日は、喜びに満ちた祝祭日として祝うべきなのです。
筆頭に挙げられるのは、公の礼拝に参加することです。しかし、礼拝だけではありません。宗教改革者のルターはこんなことばを残しています。
「私たちの業や行いによって、安息日は聖くされない。なぜなら、私たちの業は聖くなく、神のみことばによって、聖くされる」。そして、彼はその理由として、第Ⅰテモテ4章5節を挙げています。「神のことばと祈りとによって、 聖められるからです」
聖さというのは、直接接触することで、伝わっていくのです。私たちの成すすべてが、神のみことばに触れ、祈りの中に導かれるとき、すべては聖くなる。つまり、この日、私たちは安息日に何よりも神のみことばに触れ、神のみことばを熟考すべきなのです。礼拝から戻って、聖書を集中的に読むのもいいでしょう。クリスチャンホームであれば、家族で一緒に礼拝し、クリスチャンの夫婦であれば、共に祈る時間を取るという方法もあります。ふだんは忙しくて、なかなかそのようなことはできませんが、この日こそチャンスです。そのために、安息日があるのです。

── ちなみに、休みと対極にある労働について、聖書はどう示しているのでしょう。

鞭木:第四戒の4つめの意味として、労働を軽視していないことが挙げられます。9節には「6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ」とあります。
6日間の労働と1日の安息。そういうサイクルで人間は生きるべきだと聖書は示しています。それは、私たちの労働は、7日めに神を礼拝し、神に感謝することによって、初めて意味あるものとなるからです。
仕事だけをしていたら、私たちはいとも簡単に、この世の働きに埋没していきます。そして、神のことを忘れてしまう。その結果、人間の労働は今日単なる金儲けとなってしまった。過労死を生み出すほど、奴隷と同じような労働を強いる状況になってしまった。それは何のための労働なのかを見失ってしまったからなのです。

創造と救いに基づく戒め

── 第四戒の最後には、十戒には珍しく、命令の理由が書かれています。この部分をもう少し詳しく教えてください。

鞭木:創造の秩序と、イスラエルの民が受けた救いのゆえに、彼らは安息日を覚えなければならなかったのです。それはそのまま、私たちに当てはまることでしょう。私たちもまた、主イエスによる、大いなる贖いを経験したからです。その一点をもってしても、私たちは安息日を守るべきでしょう。

── 安息日の意味についてお聞きして、本当の意味が曖昧だったと痛感しました。

鞭木:安息日の過ごし方は、今日の私たちへのチャレンジではないでしょうか。安息日を真剣に考えて、それを礼拝としっかりと結びつけて考えてきたでしょうか。
かつて聖書宣教会の研修生の一人が、「先生、礼拝しなさいと命じている聖書の箇所はありますか」と聞いてきました。聖書に記述がなくても、それは「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」の中にある。そういう形で命じられているのです。
つまり、主は創造の時、第七日めを特別に祝福してくださった。その祝福の中に、私たちの礼拝は位置づけられています。
歴史を見るとき、神の戒めを守らないことによって、イスラエルは滅びました。しかし、神はキリストの十字架によって新しい契約をもたらしました。しかし、契約の内容は変わっていません。主は、聖霊を送り、新しい心を作り、そこに律法を刻むことで、戒めを喜んで成就する力を与えた。新しい契約の元である聖霊を受けた者は、律法の要求をまっとうするはずです。それは義務としてではない、喜びとしてまったく自主的に実現する。その中に安息日に関することも含まれているのです。
今日、それははたして私たちの日々の歩みにおいて成就されているでしょうか。安息日規定全体の中で、礼拝を守ること。それは今日的課題、意義ではないかと思います。新しい契約の下で、私たちが神との契約を破り続けるならば、何が起こるのでしょうか。神とキリストに対する個人的または公的礼拝に心を向けることを妨げる、あらゆる種類の労働、娯楽を差し控えるべきでしょう。

── 日曜日に、礼拝に出る習慣はあっても、安息日を聖別するという意識が希薄だと、信仰生活は、どうなるでしょうか。

鞭木:私たちは最終的に、今の地上で生きることを楽しむのか、それともやがて来る天の御国に生きることを待ち望んでいくのか、その2つの生き方が問われるのだと思います。救われて、天国行きの切符は手に入れたけれど、同時に地上の楽しみを大いに満喫しようと思っているなら、日曜日は義務的に礼拝して、午後は自分の楽しみのために生きることができると思います。でも、キリストに従う者なら、そうは生きられないのではないでしょうか。
今のクリスチャンの多くは、地上においていかに生きるかが、非常に大きなウェイトを占めている感じがします。それが、安息日の礼拝後をどう過ごすかに表れているのではないか。
そういう人は「聖なる日とせよ」という神のことばが重荷になってしまう。その根幹には、その人が救いをどうとらえているかの問題があると思います。主と交わり、祈り、賛美することが、義務的にしかできなくなったら、礼拝も大変だろうと思います。本当は、喜びの日であるはずなのに。

── 先生は著書の中で、「造られた者(人間)は、造った方(神)のために存在している」と書かれていましたが、その認識とも関わるお話かと思います。

鞭木:すべての作られたものはそうですが、道具は、作った人間のために存在しています。創造者にはそういう権利があります。人間もまったく同じで、神に作られた被造物なのです。人間に被造物だという意識があれば、神の栄光のために生きるようにされていくはずです。

── 洗礼を受けた人でも、『自分は神のために生きている』とすなおに告白できない“古い人”が疼くことがあったりします…。

鞭木:神様に対する認識が低いというか、神様はお友達で救い主だけれども、創造者として認めていないところがあるのではないでしょうか。自分の被造性を認識すれば、創造者のために生きることが自然です。
その被造物がどう生きたら幸せになれるかは、全能の創造者がいちばんわかっています。そのために十戒も与えられました。
ウェストミンスター小教理問答の最初にも、「人のおもな目的は、何ですか」という問いがありますが、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」という答えがあります。クリスチャンの中で、そのことが確かにあるのかどうか。罪の救いだけを神様に頂き、あとは自分の思いを優先して生きたいという傾向がないでしょうか。

── そうならないためにも、もしくはその状態から脱するためにも、安息日を聖なる日と位置付けし直すことが役立つのですね。

鞭木:そうです。ぜひもう一度、主日をどのように用いるか考え直してほしいですね。それは、私たちクリスチャンの生き方に決定的な影響を与えます。
礼拝から戻り、夫婦で一緒に祈る。または個人のディボーションでも、ふだんより長く祈る時間をもつ。遅れている聖書通読をこの日に済ませるなど。
もちろん、教会の奉仕をしたり、午後の集会に出席するのも良いでしょう。病気の教会員を訪問したり、クリスチャンの交わりをもったり。ただ、そうしたことを律法的に守ってしまうという危険性があることには注意してください。いずれにしても神ご自身のために、その1日を用いるようにすること、それこそ、この第四の戒めが真に求めていることなのです。

── 安息日が、神様との関係を週ごとにチューニングする機会なのだということがよくわかりました。ありがとうございました。

「百万人の福音」2019年2月号特集『神の懐で憩う安息日』より〉

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